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元興寺ではいただけません
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元興寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2022年08月30日(火)
参拝:2022年8月吉日
元興寺は蘇我馬子が崇峻天皇元年(588)、飛鳥に創建した飛鳥寺(法興寺)を基とします。
日本最初の本格的伽藍寺院、「仏法興隆」の寺の由緒から、平城遷都にともない、「元興寺」として養老2年(718年)に寺籍を平城左京(外京)に新築移建されました。創建当初の新たな金堂本尊は弥勒如来であり、飛鳥大仏(釈迦如来)は旧地に留まり、初伝の三論、法相教学の拠点として優秀な僧を輩出しました。その学問僧たちが寄宿し学問した堂舎が僧坊であり、「元興寺極楽坊縁起」に登場する智光と礼光(頼光)は同朋であったといいます。
智光法師には三論宗の「浄名玄論略述」や浄土教の「無量寿経論釈」など多くの著述があったとされます。特に阿弥陀如来西方極楽浄土の信仰に係わる先駆的著作として、天台の良源や恵信の「往生要集」などに引用され、平安時代半ばから隆盛となる阿弥陀浄土信仰において、智光の存在は再評価されました。智光が感得した阿弥陀極楽浄土の変相図、すなわち「智光曼荼羅」にまつわる説話は慶滋保胤(~1002)の「日本往生極楽記」に著されて、智光の住んだ僧坊は、極楽浄土図を本尊としたが故にか、あるいは往生者の智光、礼光に因み「極楽坊」とよばれて浄土信仰の聖地のひとつとなりました。
元興寺の伽藍堂舎は律令体制の衰退にともない退転を余儀なくされましたが、その旧境内には庶民の町屋が建てられて「ならまち」が中世以来成立してゆきます。
浄土往生信仰が庶民層に広がると、その庶民の信仰により極楽坊は護持されてきました。智光曼荼羅の原本は焼失しましたが、各種の写本を伝え、曼荼羅堂(極楽堂)と禅室(僧坊)が国宝建造物として現存し、近年世界文化遺産に登録されました。
日本最初の本格的伽藍寺院、「仏法興隆」の寺の由緒から、平城遷都にともない、「元興寺」として養老2年(718年)に寺籍を平城左京(外京)に新築移建されました。創建当初の新たな金堂本尊は弥勒如来であり、飛鳥大仏(釈迦如来)は旧地に留まり、初伝の三論、法相教学の拠点として優秀な僧を輩出しました。その学問僧たちが寄宿し学問した堂舎が僧坊であり、「元興寺極楽坊縁起」に登場する智光と礼光(頼光)は同朋であったといいます。
智光法師には三論宗の「浄名玄論略述」や浄土教の「無量寿経論釈」など多くの著述があったとされます。特に阿弥陀如来西方極楽浄土の信仰に係わる先駆的著作として、天台の良源や恵信の「往生要集」などに引用され、平安時代半ばから隆盛となる阿弥陀浄土信仰において、智光の存在は再評価されました。智光が感得した阿弥陀極楽浄土の変相図、すなわち「智光曼荼羅」にまつわる説話は慶滋保胤(~1002)の「日本往生極楽記」に著されて、智光の住んだ僧坊は、極楽浄土図を本尊としたが故にか、あるいは往生者の智光、礼光に因み「極楽坊」とよばれて浄土信仰の聖地のひとつとなりました。
元興寺の伽藍堂舎は律令体制の衰退にともない退転を余儀なくされましたが、その旧境内には庶民の町屋が建てられて「ならまち」が中世以来成立してゆきます。
浄土往生信仰が庶民層に広がると、その庶民の信仰により極楽坊は護持されてきました。智光曼荼羅の原本は焼失しましたが、各種の写本を伝え、曼荼羅堂(極楽堂)と禅室(僧坊)が国宝建造物として現存し、近年世界文化遺産に登録されました。
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