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さなだじんじゃ

眞田神社
公式長野県 上田駅

現在の御朱印・御朱印帳

御朱印(1種類)

眞田神社では、眞田神社の御朱印のほか、季節や行事に合わせたカラフルな御朱印が頒布されています。

眞田神社の御朱印

300円

真ん中に眞田神社と書かれ、右上に丸に勇と書かれた六連銭の印、真ん中に信州眞田神社上田の印、右下に3つの家紋(左から、五三の桐紋、六連銭紋、永楽銭紋)と「真田 仙石 松平 歴代城主の御霊 謹んで合祀奉る」の印、左上に菊のイラスト印、左下に霜月の印が入っています。
眞田神社は、元来、松平家の御先祖をお祀りする松平神社(しょうへいじんじゃ)でしたが、昭和25年に真田氏と仙石氏を合祀した後、昭和38年に現在の「眞田神社」に変更されました。
歴代城主の真田氏、仙石氏、松平氏を御祭神に祀っているため、真田家、仙石家、松平家の家紋が入っています。
この御朱印は月ごとにデザインが変わります。

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御朱印について
御朱印
あり

真ん中に眞田神社と書かれ、六文銭紋の印、信州眞田神社上田の印が押された御朱印です。
六文銭紋は真田家の家紋です。
季節の限定御朱印には二面見開きもあり、真田家をモチーフにした印やイラストが入っているものもあります。
上田城本丸跡に鎮座している眞田神社は、歴代の上田城主である真田氏、仙石氏、松平氏を合祀しています。

限定
あり
御朱印帳
あり
パーキング
駐車場
あり

上田城北観光駐車場・上田城跡駐車場

歴史

【智恵の神 智仁勇 眞田神社御由緒】
上田城本丸跡に鎮座する当社は、真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神としています。
しかし、もともとは松平家の御先祖をお祀りする御宮であり、松平(しょうへい)神社と称していました。

【創建】
松平家は、真田氏、仙石氏のあと、江戸時代中期から明治の廃藩に至るまで七代百六十余年の長きにわたる上田城主でした。
松平家は先祖を徳川将軍家と同じくする松平氏の一つで、藤井松平氏と呼ばれます。上田城主となった系統の藤井松平氏の初代忠晴公は、隠退後は忠山と号しました。寛文九年(1669年)に亡くなられた忠山公の御墓所は京都の金戒光明寺にあります。その京都に忠山公の御霊をまつる忠山社が設けられてもいました。この御社が当社の起源になります。

【松平神社の建立】
明治維新の変革の中、廃藩置県により上田藩も廃されます。国に接収された上田城も間もなく民間へ払い下げとなりました。そして城跡は、急速に桑園・麦畑などに姿を変えていったのです。そのような情勢の中で、旧上田藩士や旧領内有志により、旧藩主松平氏への報恩のため、初代忠山公、二代忠昭公、三代忠周公(上田入封初代)の御霊璽をあわせてお祀りする神社を、上田城跡に建立したいとの声が起こりました。 この動きは、上田城に拠って二度にわたる徳川の大軍の攻撃を退けたという、真田氏の活躍などで名高い上田城跡を、史跡として後世にまで伝えたい、という願いがあってのことでもありました。そして、上田城本丸跡の所有者となっていた丸山平八郎氏の篤志により、その南半分の地が境内用地として寄附され、松平神社創立願が長野県より許可されたのは、明治十二年(1879年)のことでした。その後、本丸の残りの地も、やはり丸山平八郎氏から松平神社付属の公園用地として寄附され、上田の人々の憩いの場として本丸全域が整備されることになったのです。

【歴代上田城主を合祀】
真田氏は上田市の象徴でもある上田城を築き、その武略によって上田城の名を高からしめました。仙石氏はその後をうけて上田藩政を発展されるとともに、関ケ原合戦後破却されていた上田城の復興にもあたりました。 これら先代の城主も合わせてお祀りすることが、上田城跡守護の神社として、また、新時代の神社として望ましいのではないか、という声が先の大戦後に起こりました。そして、昭和二十八年(1953年)に真田氏と仙石氏、そして松平氏の歴代全城主を合祀して、松平神社から上田神社と改称致しました。しかし、かつて市内にあった同名他社と紛らわしいこともあり、初代城主である真田氏の名を冠して、昭和三十八年に眞田神社と再度改称し今日に至っているものです。

【仙谷氏による上田藩】
元和8年(1622年)に小諸藩から入封した仙谷忠政は、廃城同然となっていた上田城の復興を計画し工事に着手し未完成にはおわりますが、わずか2年足らずの間に埋められていた堀を元通りにし、7棟の隅櫓や2棟の東西虎口の櫓門など本丸の体裁を整え、二の丸も掘と土塁や各石垣などができ上りました。仙石氏は忠政以降、政俊、政明と3代84年間にわたり上田藩を治め、農業振興や産業育成に力を注ぎました。

【松平氏による上田藩】
宝永3年(1706)、出石藩(兵庫県豊岡市)に移封となった仙石氏に代わって、出石から松平忠周が入封しました。徳川家康が三河在住時代以来の徳川一族で、藤井松平氏とも呼ばれ、明治維新に至るまで7代、160年余にわたって上田藩を治め、譜代大名として老中など幕府の要職をたびたび務めています。松平氏時代は上田の経済発達や産業振興にともない上田独自の文化が育まれ、幾多の人材を輩出しました。

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眞田神社の基本情報

住所長野県上田市二の丸1-12
行き方

JR北陸新幹線「上田駅」より徒歩約17分

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名称眞田神社
読み方さなだじんじゃ
参拝時間

参拝自由

トイレ上田城址公園内利用
御朱印あり

真ん中に眞田神社と書かれ、六文銭紋の印、信州眞田神社上田の印が押された御朱印です。
六文銭紋は真田家の家紋です。
季節の限定御朱印には二面見開きもあり、真田家をモチーフにした印やイラストが入っているものもあります。
上田城本丸跡に鎮座している眞田神社は、歴代の上田城主である真田氏、仙石氏、松平氏を合祀しています。

限定御朱印あり
御朱印帳あり
電話番号0268-22-7302
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ホームページhttp://sanada-jinja.com
おみくじあり
お守りあり
絵馬あり
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巡礼の詳細情報

【公式】信州上田御朱印めぐり

詳細情報

ご祭神眞田家、仙谷家、松平家歴代上田城主合祀
創建時代1879年(明治12年)
ご由緒

【智恵の神 智仁勇 眞田神社御由緒】
上田城本丸跡に鎮座する当社は、真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神としています。
しかし、もともとは松平家の御先祖をお祀りする御宮であり、松平(しょうへい)神社と称していました。

【創建】
松平家は、真田氏、仙石氏のあと、江戸時代中期から明治の廃藩に至るまで七代百六十余年の長きにわたる上田城主でした。
松平家は先祖を徳川将軍家と同じくする松平氏の一つで、藤井松平氏と呼ばれます。上田城主となった系統の藤井松平氏の初代忠晴公は、隠退後は忠山と号しました。寛文九年(1669年)に亡くなられた忠山公の御墓所は京都の金戒光明寺にあります。その京都に忠山公の御霊をまつる忠山社が設けられてもいました。この御社が当社の起源になります。

【松平神社の建立】
明治維新の変革の中、廃藩置県により上田藩も廃されます。国に接収された上田城も間もなく民間へ払い下げとなりました。そして城跡は、急速に桑園・麦畑などに姿を変えていったのです。そのような情勢の中で、旧上田藩士や旧領内有志により、旧藩主松平氏への報恩のため、初代忠山公、二代忠昭公、三代忠周公(上田入封初代)の御霊璽をあわせてお祀りする神社を、上田城跡に建立したいとの声が起こりました。 この動きは、上田城に拠って二度にわたる徳川の大軍の攻撃を退けたという、真田氏の活躍などで名高い上田城跡を、史跡として後世にまで伝えたい、という願いがあってのことでもありました。そして、上田城本丸跡の所有者となっていた丸山平八郎氏の篤志により、その南半分の地が境内用地として寄附され、松平神社創立願が長野県より許可されたのは、明治十二年(1879年)のことでした。その後、本丸の残りの地も、やはり丸山平八郎氏から松平神社付属の公園用地として寄附され、上田の人々の憩いの場として本丸全域が整備されることになったのです。

【歴代上田城主を合祀】
真田氏は上田市の象徴でもある上田城を築き、その武略によって上田城の名を高からしめました。仙石氏はその後をうけて上田藩政を発展されるとともに、関ケ原合戦後破却されていた上田城の復興にもあたりました。 これら先代の城主も合わせてお祀りすることが、上田城跡守護の神社として、また、新時代の神社として望ましいのではないか、という声が先の大戦後に起こりました。そして、昭和二十八年(1953年)に真田氏と仙石氏、そして松平氏の歴代全城主を合祀して、松平神社から上田神社と改称致しました。しかし、かつて市内にあった同名他社と紛らわしいこともあり、初代城主である真田氏の名を冠して、昭和三十八年に眞田神社と再度改称し今日に至っているものです。

【仙谷氏による上田藩】
元和8年(1622年)に小諸藩から入封した仙谷忠政は、廃城同然となっていた上田城の復興を計画し工事に着手し未完成にはおわりますが、わずか2年足らずの間に埋められていた堀を元通りにし、7棟の隅櫓や2棟の東西虎口の櫓門など本丸の体裁を整え、二の丸も掘と土塁や各石垣などができ上りました。仙石氏は忠政以降、政俊、政明と3代84年間にわたり上田藩を治め、農業振興や産業育成に力を注ぎました。

【松平氏による上田藩】
宝永3年(1706)、出石藩(兵庫県豊岡市)に移封となった仙石氏に代わって、出石から松平忠周が入封しました。徳川家康が三河在住時代以来の徳川一族で、藤井松平氏とも呼ばれ、明治維新に至るまで7代、160年余にわたって上田藩を治め、譜代大名として老中など幕府の要職をたびたび務めています。松平氏時代は上田の経済発達や産業振興にともない上田独自の文化が育まれ、幾多の人材を輩出しました。

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