さのじんじゃ
狭野神社宮崎県 高原駅
9:00~16:00
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楽しみ方
参拝記念⛩️✨️
狭野神社
霧島六社権現③
宮崎県高原町に鎮座する狭野神社へ参拝に上がらせて頂きました🙏
霧島六社権現の内の1社です。
霧島岑神社から南下して狭野神社へ
鳥居から参道の雰囲気が素敵です✨️
やはりこちらも仁王像があり…
神仏習合の香りがします。
御朱印 書置き
拝殿に書置きが数種類用意されていました。
書置きのみで書入れは行っていない様子でした
鳥居
境内図
社号標
参道
手水舎
神門
神門から覗く境内
参道に対して社殿はと直角に90度
北を背にして佇んでいます
参道は新燃岳を向いていますj
狛犬
シュールでカッコイイ✨️
と思ったら
肋骨が浮き出てるよ?
ちゃんとご飯食べな~
狭野杉
拝殿
絵馬
仁王像
曼珠沙華
ありがとうございました🙏

【日向國 古社巡り】
狭野神社(さの~)は、宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田にある神社。旧社格は県社、のち官幣大社・宮崎神宮の別宮。現在は再独立し、神社本庁の別表神社。主祭神は神日本磐余彦天皇(神武天皇)、配祀神は吾平津媛命、天津彦火瓊瓊杵尊、木花咲耶姫命、彦火々出見命、豊玉姫命、鸕鷀草葺不合命、玉依姫命。社名は神武天皇の幼名「狭野尊」に因む。旧称は「東霧島権現」で、霧島六所権現の1社(4/6)。
社伝によると、第5代・孝昭天皇の御代(紀元前475年~紀元前393年)、神武天皇ご降誕の地に創建されたと伝わる。霧島連峰の麓に位置するため幾多の火山噴火の災禍に見舞われ、奈良時代の788年、鎌倉時代の1234年に社殿を焼失し、仮殿を設け遷座している。江戸時代初期の1610年に元の狭野の地に新社殿を造営し遷御している。なお、戦国時代以降、島津氏から篤い尊崇を受け、文禄年間の豊臣秀吉公朝鮮の役では島津義弘公出陣に際し戦勝祈願がなされ、凱旋後1600年に祈願奉賽として境内全般に杉を植栽した(現在は国の天然記念物)。明治に入り、近代社格制度のもと県社に列格し、大正に入り宮崎神宮の別宮に指定された(戦後再独立)。
当社は、JRえびの高原線・高原駅の南西3kmあまりの霧島山の山裾、高千穂峰の東北東5kmの比較的平らな場所にある。境内は古高木が立ち並ぶ森で、そこにまっすぐで長い参道と、ぽっかりと空が開けた社殿周りと大きな社殿が存在する。島津家に手厚く保護されてきた、豪壮で美しい境内の造りに行き届いた手入れは神聖な空気感を生み出し、さすが別表神社と思わせてくれる。
今回は、宮崎県の旧県社、別表神社であることから参拝することに。参拝時は休日の午後で、地元の人にとってもレジャーの定番なのか、地元風の家族連れを中心に割と多くの参拝客が訪れていた。
境内東端入口全景。深い森に真っ赤な鳥居が映える。
境内入口の<鳥居>と<社号標>。社号標には社号の前に「縣社」ではなく「別表」と書かれている。
鳥居をくぐって、深い森に入って行く。
神聖な空気感の中、参道を進むと、真っ赤な<神橋>が小川の上に架かっている。
参道左側の<手水舎>。
参道右側の<修祓殿>。
さらに進んで<神門>をくぐる。
神門をくぐって前に進むと、右手に社殿が見えてくる。
瑞垣で囲われているエリアに入って行く。
神域入口左側の<狛犬>。大社でよく見かけるブロンズ製かな。
神域入口右側の<狛犬>。
<外拝殿>全景。当社の社殿は<外拝殿ー拝殿ー本殿>という構成になっている。
外拝殿内部から<拝殿>を望む。
<拝殿>全景。
社殿の右側を見て廻る。
社殿の右側奥、拝殿右側に繋がっている<祈祷受付所>。
社殿の右側にある<授与所>。御朱印はこちら。かなり豊富な種類の書置きの御朱印が置いてある。
授与所近くにある境内社<東門守社>。宮崎県によくある門の守護神かと思い、外拝殿の反対側を見て見ると、、、
案の定、外拝殿の左手に反対側の門の守護神<西門守社>を発見。(o^―^o)
外拝殿に向かって左手にある<水神社>。
水神社近くから見た<社殿>全景。拝殿には両側に翼殿がある。
拝殿後ろの<本殿>。三間社流造で、1907年に霧島神宮の旧本殿を移築したもの。
神域入口にある<御神木>。
最後に、実際に最初に到着したのは西参道入口のこちらの鳥居。正参道をまっすぐ進むとこちらに辿り着く。(^▽^)/
社伝によれば、第五代孝昭天皇の御代に神武天皇御降誕の地に創建されたと伝えられています。当社より西方一キロの霊跡に末社皇子原神社が鎮座し産場石と呼ばれる神石が奉齋されています。御祭神生誕の折に産湯をお取りになられたと伝承され今猶安き出産を齎して戴けると伝えられます。また霊峰高千穂の峰周辺には皇子川原、祓川、血捨の木、宮の宇都、鳥居原等の神武生誕にまつわる地名が残され御祭神のご生業を物語っています。神武天皇さまは御齢十五才を迎える迄、此の地で天下広く統治すべく天壌無窮の御心を培われ御東征の後、奈良県橿原の宮居にて初代の天皇となられました。
当社は高原町の南西部に位置し霧島連峰の麓に鎮座するため幾多の火山噴火の災禍に見舞われた歴史があります。御生誕より数えて第五十代、桓武天皇(延暦七年・七八八年)七月の、高千穂霧島嶽噴火以後幾度も難に遭いつつ、文暦元年(一二三四年)の噴火においては霧島山烈火の如く鳴動し熱石を降らし社殿等を悉く焼亡に至らしめ、高原町西麓の地に仮殿を設け遷奉がなされました。霧島山の噴火も治まった慶長十五年(一六一〇年)には、新たに社殿を造営し元の狭野の地に還御なされました。記憶に新しいところでは、平成二十三年一月二十六日霧島連峰新燃岳が再三に亙り噴火し、小林市霧島岑神社に暫し遷御いたしました。
旧社領地は東西二千間・南北一千間に迄及ぶとされ、歴代の薩摩藩主島津氏より尊崇篤く社殿の寄進等も度々行われました。文禄年間の豊臣秀吉公朝鮮の役では、島津義弘公出陣に際し戦勝祈願がなされ凱旋の後、慶長五年(一六〇〇年)祈願奉賽として重臣新納武蔵守忠元を遣わし境内全般に杉を植栽しました。大正十三年には狭野の杉並木として国の天然記念物に指定され、現在も境内に鬱蒼として聳える杉並木として残っています。明治六年県社に列し、大正四年には官幣大社宮崎神宮の別宮に指定されました。また第三十代敏達天皇の御代より別当寺を創立し、金剛仏作寺神生院の勅号を賜りました。後に霧島仏華林寺神徳院と称するようになり、霧島修験道の大寺として信仰されていました。慶応二年廃仏毀釈により廃寺となりましたが、歴代の住職を中興の祖と仰ぎ神徳院墓地を創設し祀っています。高千穂峰近在に鎮座する霧島六所権現(当社・霧島神宮・霧島岑神社・霧島東神社・東霧島神社・夷守神社)の一社としても数えられています。
[公式HPより]
| 名称 | 狭野神社 |
|---|---|
| 読み方 | さのじんじゃ |
| 参拝時間 | 9:00~16:00 |
| 参拝にかかる時間 | 約20分 |
| 参拝料 | なし |
| トイレ | あり |
| 御朱印 | あり |
| 限定御朱印 | なし |
| 御朱印帳に直書き | あり ■書置きのみ
|
| 御朱印の郵送対応 | なし |
| 御朱印帳 | あり |
| 電話番号 | 0984-42-1007 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
| ホームページ | https://sanojinjya.web.fc2.com/ |
| ご祭神 | 《主祭神》 神倭伊波礼彦天皇 《合祀神》 吾平津姫命 天津彦彦火瓊瓊杵尊 木花開耶姫命 彦火火出見尊 豊玉姫命 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊 玉依姫命 |
|---|---|
| 創建時代 | 第5代孝昭天皇の御代 |
| 創始者 | 不詳 |
| 本殿 | 三間社流造 |
| ご由緒 | 社伝によれば、第五代孝昭天皇の御代に神武天皇御降誕の地に創建されたと伝えられています。当社より西方一キロの霊跡に末社皇子原神社が鎮座し産場石と呼ばれる神石が奉齋されています。御祭神生誕の折に産湯をお取りになられたと伝承され今猶安き出産を齎して戴けると伝えられます。また霊峰高千穂の峰周辺には皇子川原、祓川、血捨の木、宮の宇都、鳥居原等の神武生誕にまつわる地名が残され御祭神のご生業を物語っています。神武天皇さまは御齢十五才を迎える迄、此の地で天下広く統治すべく天壌無窮の御心を培われ御東征の後、奈良県橿原の宮居にて初代の天皇となられました。 当社は高原町の南西部に位置し霧島連峰の麓に鎮座するため幾多の火山噴火の災禍に見舞われた歴史があります。御生誕より数えて第五十代、桓武天皇(延暦七年・七八八年)七月の、高千穂霧島嶽噴火以後幾度も難に遭いつつ、文暦元年(一二三四年)の噴火においては霧島山烈火の如く鳴動し熱石を降らし社殿等を悉く焼亡に至らしめ、高原町西麓の地に仮殿を設け遷奉がなされました。霧島山の噴火も治まった慶長十五年(一六一〇年)には、新たに社殿を造営し元の狭野の地に還御なされました。記憶に新しいところでは、平成二十三年一月二十六日霧島連峰新燃岳が再三に亙り噴火し、小林市霧島岑神社に暫し遷御いたしました。 旧社領地は東西二千間・南北一千間に迄及ぶとされ、歴代の薩摩藩主島津氏より尊崇篤く社殿の寄進等も度々行われました。文禄年間の豊臣秀吉公朝鮮の役では、島津義弘公出陣に際し戦勝祈願がなされ凱旋の後、慶長五年(一六〇〇年)祈願奉賽として重臣新納武蔵守忠元を遣わし境内全般に杉を植栽しました。大正十三年には狭野の杉並木として国の天然記念物に指定され、現在も境内に鬱蒼として聳える杉並木として残っています。明治六年県社に列し、大正四年には官幣大社宮崎神宮の別宮に指定されました。また第三十代敏達天皇の御代より別当寺を創立し、金剛仏作寺神生院の勅号を賜りました。後に霧島仏華林寺神徳院と称するようになり、霧島修験道の大寺として信仰されていました。慶応二年廃仏毀釈により廃寺となりましたが、歴代の住職を中興の祖と仰ぎ神徳院墓地を創設し祀っています。高千穂峰近在に鎮座する霧島六所権現(当社・霧島神宮・霧島岑神社・霧島東神社・東霧島神社・夷守神社)の一社としても数えられています。
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| 体験 | 祈祷おみくじお宮参り絵馬七五三御朱印お守り祭り札所・七福神巡り伝説 |
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