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曹洞宗

妙心院のお参りの記録一覧
宮城県 榴ケ岡駅

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かおり
かおり
2023年10月24日(火)1801投稿

こちらの曹洞宗妙心院に松尾芭蕉の蓑塚があると知ったのは、実は松島に向かう電車の中でのスマホ検索によるものだった。
近くの榴岡(つつじおか)天満宮にも松尾芭蕉の句碑があるし、と。
仙台城址は又の機会に!と、翌日の予定を変更したのだった。

笠嶋はいづこ皐月のぬかり道

芭蕉が仙台に到着したのは梅雨のさなか。紙子とよばれる和紙の雨具が旅の荷物には欠かせませんでした。境内の芭蕉翁蓑塚は、芭蕉が仙台を発ち松島に向かう際に置いて行った紙子を、後に浮月坊鉄船という医者の俳人が供養のために埋めて建てたものです。

妙心院は曹洞宗松音寺の末寺。 政宗の乳母、片倉喜多子(片倉小十郎の異父姉)の父、鬼庭左月斎が人取橋合戦で戦死した折、政宗の母が喜多子の慰めに天正14年(1586)山形の長井に建立。 その後、岩出山を経て現在地。喜多子は慶長15年(1610)白石市郊外の「滝の観音堂」で71歳で没し、政宗がここを牌寺とした。 戦後の区画整理で昭和50年(1975)に再築。境内に古来から祀られている「稲荷堂」がある。現稲荷堂は平成11年新築。

現在の若林区新寺地域は、松島に向かう途中にある。

境内に入り、目を惹くのは稲荷堂。ここは曹洞宗寺院ではあるが、稲荷山ということで稲荷信仰もあるのだろうか。
というか、私の勝手な意見なのだが、豊川稲荷など曹洞宗寺院は、稲荷信仰があるのだろうか?
横浜市南区蒔田の曹洞宗寺院も豊川稲荷分院が祀られており、そこで般若心経を唱えるようになっているのだ。

本堂前左手に建つ芭蕉翁蓑塚(右)と芭蕉翁蓑衣塚銘。寛政7年(1795)建立。
銘碑は黄檗宗万福寺(京都・黄檗宗の本山)の蒲庵禅師が撰文したもので、それによれば、当地に浮月坊鉄船という医者の俳人がおり、芭蕉が奥の細道の旅に着て来た蓑を脱いで置いて行ったものを所蔵していた。それをここに埋めて建てた記念碑が蓑塚であるという。

住職に頂いた文書より
芭蕉翁の蓑塚
本年は「奥の細道」300年目という記念すべき年である。その奥羽の長途行脚を象徴するような芭蕉の「蓑」を納めた塚が妙心院本堂の前にある。
元禄2年(1689年)3月27日、俳聖芭蕉(46歳)は、5歳年下の高弟曽良を随えて(したがえて)江戸深川の芭蕉庵に別れを告げ、待望の奥の細道へと向かった。紀行文、奥の細道の序文に、「・・・もも引きの破れをつづり笠の緒つけかえて三里の灸すゆるより松島の月まず心にかかりて・・・」とあるように、2500㎞に及ぶ俳諧紀行の最大の喜びは松島の風景に接することで、旅の準備を進めながらも心は早や松島に飛んでいる様が描き出されている。
今の東北線沿いに北上した芭蕉は「・・・名取川を渡りて仙台に入る。あやめふく日なり・・・」つまり5月4日仙台入りをして「ここに画工加衛門と云う者あり。聊か(いささか)心ある者と聞きて知る人になる」即ち、「少々風流心がある人だと聞いたので知り合いになった」と描写しているが、これは芭蕉独特の虚構で大淀三千風と芭蕉の関係及び加衛門は三千風の高弟であるという事情を考えると、芭蕉は前もって加衛門に連絡し、名所の案内などを依頼していたに違いない。
さて、蓑塚とは仙台の俳人浮月房鉄船が、黄檗山万福寺の蒲庵禅師から、「寛政7年(1795年)10月12日、妙心院境内に芭蕉の蓑を納めて建碑した塚をいう。それは芭蕉来仙後106年後のことである。
ところで、このことについて奥の細道や曽良日記からは関連する事がらの片鱗をも窺い知ることができないので、推理するほかには手立てがない。
当時の仙台の名所・歌枕等ー宮城野・玉田よこ野・つつじが岡・薬師堂・天神社などを案内してくれた加衛門は、芭蕉の為に塩釜・松島などの案内地図や風景画を書き、さらに紺の染緒をつけた草鞋二足を餞(はなむけ)として芭蕉に贈った。
「されば風流のしれ者ここに至りて其実を顕す。「あやめ草足に結ん草鞋の緒」芭蕉はそう書いている。
「しれ者」は愚か者。ばかものの義だが、「やりて」という解釈もある。私は「風流の道に奪われんばかりに心を打ちこんでいるもの」と解したい。その風流馬鹿の加衛門は、「芭蕉師匠が江戸を出立して早や40日近くにもなる。草履はもちろん、蓑も相当傷んできたようだ。これから梅雨の候にも入ることだし、なによりも芭蕉師匠憧れの「松島入り」を新しいワラジとミノで祝ってあげたい」こんな気持ちから草鞋と一緒に蓑も贈ったのではなかろうか。
その頃、俳界では蕉風が確立されてきて、これを学ぶ者は各地に増え、芭蕉十哲の面々などは既に一角の俳諧人として認められるようになっていた。
加衛門は、師匠の大淀三千風から芭蕉の流派・力量等を聞いて芭蕉を敬い蕉風に傾倒していたことであろう。従って、芭蕉から古い方の草鞋や蓑の処分を頼まれた加衛門は、処分するどころか家宝のように大切に保管したと思う。それを100年も過ぎて、その頃の俳人として名を知られた浮月房鉄船が何らかのツテで入手したのではなかろうか。
鉄船はそれらをそのまま自宅に保管するに偲びず、あたかも経塚や筆塚・花塚などを築くにも似た尊い気持ちで蓑塚造りを思い立ったものと思う。
そしてその場を、己も永遠の眠りにつくところ菩提寺妙心院境内と定めたのである。

つまり、この寺に芭蕉が立ち寄ったのではなく、医者の浮月房鉄船の菩提寺であり、そこに塚を造ったということなのだ。

親切に対応してくださった住職に感謝したい。

憧れの 蓑眠る先に 秋桜や

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