だいおうじ|臨済宗相国寺派|金剛山
大應寺(大応寺)京都府 鞍馬口駅
通常非公開
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楽しみ方
水火天満宮のお隣。法華宗から臨済宗に改宗したなかなか異色の経歴の寺院。なのですが非公開ゆえ・・・😔興聖寺と縁がある寺院なので興聖寺の特別拝観の時に合わせて特別拝観してもらいたいなぁ😅
山門
臨済宗相国寺第二教区宗務所かな?
百日紅が・・・夏の京都の代表的な花ですね
山門から境内
ちらっと扁額が見えたが文字まではわからず・・・

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織部稲荷大明神(大應寺境内社)
大應寺の境内社です。
山門から中に入れなかったので ちらっとした写真しか撮れませんでした。
石柱も文字はしっかり読めるのですが。。。
境内の後花園天皇の火葬塚の北に織部稲荷社(織部稲荷大明神)があります。
当寺の鎮守社で 茶人古田織部が伏見稲荷から勧請したものといわれ 扁額には「織部吒枳尼天」と書かれています。
しかし実際は 当寺と織部との関係を示す記録は一切なく 西向かいの興聖寺に 江戸時代中期に豊後岡藩家老・古田家が織部とその子らの墓を作った時に建てられた物だそうです。
木の向こう側にあります
山門からちらっと見えます

京都市上京区散策の続きです。扇町公園の外れにあります。近くには水火天満宮もあります。
以前ここを通った時には気づきませんでした。
山門には柵があり 境内に入ってのお参りは叶いませんでした。
寺標に相国寺の文字があり 塔頭かなと思い 帰宅してから調べました。
境内は思っていたより広く お庭はとてもきれいでした。
大応寺は1586年(天正14年)虚応円耳(こおうえんに)が壇林皇后(だんりんこうごう)が建てた悲田院跡に一字を建立したのが起源と言われています。
当初は天台・真言・禅の兼学で延暦寺に属していました。
その後1788年(天明8年)の天明の大火によって焼失したが 1808年(文化5年)以後に現在の堂宇が再建された。
なお悲田院は1646年(正保3年)永井直清が泉涌寺の山内に移して泉涌寺の塔頭になりました。
大応寺は臨済宗相国寺派の寺院です。
度々火災にあい 現在の建物は文化五年(一八〇八)以後の再建である。
本堂内には 本尊として釈迦如来 脇侍に迦葉・阿難を安置するほか 後花園天皇の念持仏という観世音菩薩像を祀る。
この土塀までが公園です
寺標
相国寺の文字が
境内の様子
金剛山と号し、臨済宗相国寺派に属する。この地は九世紀初頭、壇林皇后によって非田院(病人・貧窮者・孤児の救済施設)が建てられ、文明二年(一四七〇)後花園天皇が没したとき、その遺骸が火葬されたところでもある。応仁の乱後、久しく荒廃していたが、天正一四年(一五八六)に虚應和尚がその由緒ある遺跡を惜しんで、一字を建立したのが当寺の起こりである。
堂宇は度々火災にあい、現在の建物は文化五年(一八〇八)以後の再建である。本堂内には、本尊として釈迦如来、脇侍に迦葉・阿難を安置するほか、後花園天皇の念持仏という観世音菩薩像を祀る。
-京都観光Naviより-












| 名称 | 大應寺(大応寺) |
|---|---|
| 読み方 | だいおうじ |
| 参拝時間 | 通常非公開 |
| 電話番号 | 075-431-1926 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
| ご本尊 | 釈迦如来 |
|---|---|
| 山号 | 金剛山 |
| 宗旨・宗派 | 臨済宗相国寺派 |
| 創建時代 | 天正14年(1586年) |
| 開山・開基 | 虚応円耳上人 |
| ご由緒 | 金剛山と号し、臨済宗相国寺派に属する。この地は九世紀初頭、壇林皇后によって非田院(病人・貧窮者・孤児の救済施設)が建てられ、文明二年(一四七〇)後花園天皇が没したとき、その遺骸が火葬されたところでもある。応仁の乱後、久しく荒廃していたが、天正一四年(一五八六)に虚應和尚がその由緒ある遺跡を惜しんで、一字を建立したのが当寺の起こりである。
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