いちいだにななのじんじゃ
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いちいだにななのじんじゃ、様にお参りしました。
路地の多い西陣の中にあって、小さいお社ですが、御本殿前に浮気封じだの復縁願いだの、なかなかナマナマシイ御利益が書かれてありました😅
どちらもオバチャンには御縁がありませんけどねー
大河ドラマ「光る君へ」紀行でやったので立ち寄ったんです。ちょっと感激〜〜🥰
西陣にはこういう風情のある路地がいっぱい
その界隈に…
鳥居があります。
境内は月極駐車場になってる。
「ご神木」とわざわざ大きく書かれたご神木
樹齢500年だそうです。
石段の上に御本殿
普段は無人なのかな
ハリガミがたくさん貼ってありますねー
奈良の春日と御縁があるので、鹿さんがいます。
頭上にお屋根がある。大切にされてるのネ。
お稲荷さんもおられまして
賀茂斎院跡
葵祭の斎王行列発祥の地
少し高台にあり、西陣の町の瓦屋根が見渡せます。
なにも申しませぬ💦
きれいな御朱印
京都市上京区にある神社です。住宅地の路地をちょろっと入った所にあります。
春日神社という表記もありましたが 本殿は1つしかなかったので 櫟谷七野神社で投稿させていただきます。
加茂斎院跡の地ということもあってなのか 町中の神社さんですが 本殿が少し高くなった場所に鎮座されていて なかなかに立派です。
Googleマップでは 春日神社の表記も見られますが 春日神社の石柱がありますので 勧請されているのかなぁと思いました。
書置きですが 御朱印も拝受できました。
由緒については
社伝によれば平安時代55代文徳天皇(850年)皇后藤原明子ご懐妊の際 その安産お祈りのため 産殿の西方に大和国三笠山から春日の大神をお迎えして祈願したところ 儲君・後の清和天皇をご御平産になったと伝えられる。
その春日大社御鎮座の場所が山城国葛野郡(かどのぐん)櫟谷(いちいだに)である。
当時は櫟の森を谷川が流れていたのであろう。
また 社名の「七野」とは、もと船岡山麓一帯にあった原野で 紫野・禁野・柏野・北野・平野・蓮台野・内野(神野・神明野・萩野・御栗栖野)のこと。
これら七野の惣社として祀られたと伝えられる。
伊勢神宮の斎院に準じて設けられた紫野斎院が廃絶された時 その屋敷神を七神祀った社だったと言う説もある。
とのことでした。
路地の奥に鳥居
扁額の文字が芸術的です
こちらは摂社でしょうか
加茂斎院跡 とあります
春日神社の石柱
春日神社なら鹿ですよね
歌碑
階段の上に拝所
加茂斎院跡 の碑
拝所
本殿の横に
ご神木
御祭神 高沙大神 春日大神 武甕槌命
他19柱
葵祭のルーツ 葵祭の斎王行列発祥の地
復縁・浮気封じ
離れてしまった天皇の愛を取り戻したいと祈った、59代宇多天皇(894年)の皇后。皇后は「社前の白い砂を三笠山の形に積み祈願せよ」とのお告げをうけ、その通りに砂山を作り祈ったところ宇多天皇の愛情が戻ったといいます。それで、社前に白砂を積めば「浮気封じ」「愛の復活」の願いが叶うといわれています。縁切り・縁戻しの御守りがありました。
御守り・御朱印等 セルフです。
樹齢500年のご神木 クロガネモチ
「苦労せずにお金持ちになれる」という語呂合わせから、とっても縁起がよく金運アップの木なんです。
歴史
社伝によれば平安時代55代文徳天皇(850年)皇后藤原明子ご懐妊の際、その安産お祈りのため、産殿の西方に大和国三笠山から春日の大神をお迎えして祈願したところ、儲君・後の清和天皇をご御平産になったと伝えられる。
その春日大社御鎮座の場所が山城国葛野郡(かどのぐん)櫟谷(いちいだに)である。当時は櫟の森を谷川が流れていたのであろう。また、社名の「七野」とは、もと船岡山麓一帯にあった原野で、紫野・禁野・柏野・北野・平野・蓮台野・内野(神野・神明野・萩野・御栗栖野)のこと。これら七野の惣社として祀られたと伝えられる。伊勢神宮の斎院に準じて設けられた紫野斎院が廃絶された時、その屋敷神を七神祀った社だったと言う説もある。
この七つの野に神供田があり、その石高は合わせて七百五十石に及んだという。
この神社に、離れてしまった天皇の愛を復活させてほしいと祈ったのは、59代宇多天皇(894年)の皇后。社前の白い砂を三笠山の形に積み、祈願せよと のお告げを得て、その通りに砂山を作り祈った所、天皇の愛情が戻ったという。それ以来、社前に白砂を積めば浮気封じ・愛の復活の願いが叶うといわれ、社前 に積む砂も「高砂山」と呼ばれる様になった。
その後、応仁・文明の戦乱時代、この七野あたりは細川勝元と山名完全が相対峙する戦場と化したため、社頭は殆ど灰燼に帰したのを、大内義興の台命あって永正9年(1582年)2月、七野各社を高台の一所に集めて再興がはかられた。
織田信長が遊宴のために社を麓に引き下ろし、その跡に高殿を建てて神域を穢したことが、後に豊臣秀吉に聞え、秀吉は山内一豊をして再建せしめた。その 時、秀吉は各大名に石垣の寄進を命じ、その石には大名の家紋などが刻まれている。今は土や苔で見えにくくなっているが、秀吉の篤信が偲ばれる。
以後、特に禁裏・仙洞・女院御所の崇敬篤く、大火焼失等の都度、これらからの再興がはかられてきた。
なお、当社では、昔から毎年春になると、どこからともなく一頭の鹿が神前に現れるのを、奈良へ送るということがあった。明治6年(1872)以後見られ なくなったのであるが、この神縁により、明治28年(1895)、当社よりの依頼により奈良の春日神社から神鹿2頭を貸与された、という記録が、今日春日 大社に残っている。
-櫟谷七野神社HPより-
名称 | 櫟谷七野神社 |
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読み方 | いちいだにななのじんじゃ |
通称 | 賀茂斎院跡、櫟谷七野春日神社 |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | なし |
電話番号 | 075-462-0132 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | www.ichiidaninananojinja.com |
詳細情報
ご祭神 | 高沙大神,春日大神,武甕槌命 |
---|---|
創建時代 | 850年(嘉祥3年) |
創始者 | 文徳天皇 |
ご由緒 | 社伝によれば平安時代55代文徳天皇(850年)皇后藤原明子ご懐妊の際、その安産お祈りのため、産殿の西方に大和国三笠山から春日の大神をお迎えして祈願したところ、儲君・後の清和天皇をご御平産になったと伝えられる。
この七つの野に神供田があり、その石高は合わせて七百五十石に及んだという。
織田信長が遊宴のために社を麓に引き下ろし、その跡に高殿を建てて神域を穢したことが、後に豊臣秀吉に聞え、秀吉は山内一豊をして再建せしめた。その 時、秀吉は各大名に石垣の寄進を命じ、その石には大名の家紋などが刻まれている。今は土や苔で見えにくくなっているが、秀吉の篤信が偲ばれる。
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