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いちいだにななのじんじゃ

櫟谷七野神社
京都府 鞍馬口駅

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くるくるきよせん
くるくるきよせん
2024年08月05日(月) 23時04分48秒
2998投稿

京都市上京区にある神社です。住宅地の路地をちょろっと入った所にあります。
春日神社という表記もありましたが 本殿は1つしかなかったので 櫟谷七野神社で投稿させていただきます。
加茂斎院跡の地ということもあってなのか 町中の神社さんですが 本殿が少し高くなった場所に鎮座されていて なかなかに立派です。
Googleマップでは 春日神社の表記も見られますが 春日神社の石柱がありますので 勧請されているのかなぁと思いました。
書置きですが 御朱印も拝受できました。

由緒については
社伝によれば平安時代55代文徳天皇(850年)皇后藤原明子ご懐妊の際 その安産お祈りのため 産殿の西方に大和国三笠山から春日の大神をお迎えして祈願したところ 儲君・後の清和天皇をご御平産になったと伝えられる。
その春日大社御鎮座の場所が山城国葛野郡(かどのぐん)櫟谷(いちいだに)である。
当時は櫟の森を谷川が流れていたのであろう。
また 社名の「七野」とは、もと船岡山麓一帯にあった原野で 紫野・禁野・柏野・北野・平野・蓮台野・内野(神野・神明野・萩野・御栗栖野)のこと。
これら七野の惣社として祀られたと伝えられる。
伊勢神宮の斎院に準じて設けられた紫野斎院が廃絶された時 その屋敷神を七神祀った社だったと言う説もある。
とのことでした。

櫟谷七野神社(京都府)

路地の奥に鳥居

櫟谷七野神社(京都府)

扁額の文字が芸術的です

櫟谷七野神社(京都府)

こちらは摂社でしょうか

櫟谷七野神社(京都府)

加茂斎院跡 とあります

櫟谷七野神社(京都府)

春日神社の石柱

櫟谷七野神社(京都府)

春日神社なら鹿ですよね

櫟谷七野神社(京都府)

歌碑

櫟谷七野神社(京都府)

階段の上に拝所

櫟谷七野神社(京都府)

加茂斎院跡 の碑

櫟谷七野神社(京都府)

拝所

櫟谷七野神社(京都府)

本殿の横に

櫟谷七野神社(京都府)

ご神木

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歴史

社伝によれば平安時代55代文徳天皇(850年)皇后藤原明子ご懐妊の際、その安産お祈りのため、産殿の西方に大和国三笠山から春日の大神をお迎えして祈願したところ、儲君・後の清和天皇をご御平産になったと伝えられる。
 その春日大社御鎮座の場所が山城国葛野郡(かどのぐん)櫟谷(いちいだに)である。当時は櫟の森を谷川が流れていたのであろう。また、社名の「七野」とは、もと船岡山麓一帯にあった原野で、紫野・禁野・柏野・北野・平野・蓮台野・内野(神野・神明野・萩野・御栗栖野)のこと。これら七野の惣社として祀られたと伝えられる。伊勢神宮の斎院に準じて設けられた紫野斎院が廃絶された時、その屋敷神を七神祀った社だったと言う説もある。

 この七つの野に神供田があり、その石高は合わせて七百五十石に及んだという。
 この神社に、離れてしまった天皇の愛を復活させてほしいと祈ったのは、59代宇多天皇(894年)の皇后。社前の白い砂を三笠山の形に積み、祈願せよと のお告げを得て、その通りに砂山を作り祈った所、天皇の愛情が戻ったという。それ以来、社前に白砂を積めば浮気封じ・愛の復活の願いが叶うといわれ、社前 に積む砂も「高砂山」と呼ばれる様になった。
 その後、応仁・文明の戦乱時代、この七野あたりは細川勝元と山名完全が相対峙する戦場と化したため、社頭は殆ど灰燼に帰したのを、大内義興の台命あって永正9年(1582年)2月、七野各社を高台の一所に集めて再興がはかられた。

 織田信長が遊宴のために社を麓に引き下ろし、その跡に高殿を建てて神域を穢したことが、後に豊臣秀吉に聞え、秀吉は山内一豊をして再建せしめた。その 時、秀吉は各大名に石垣の寄進を命じ、その石には大名の家紋などが刻まれている。今は土や苔で見えにくくなっているが、秀吉の篤信が偲ばれる。
 以後、特に禁裏・仙洞・女院御所の崇敬篤く、大火焼失等の都度、これらからの再興がはかられてきた。
 なお、当社では、昔から毎年春になると、どこからともなく一頭の鹿が神前に現れるのを、奈良へ送るということがあった。明治6年(1872)以後見られ なくなったのであるが、この神縁により、明治28年(1895)、当社よりの依頼により奈良の春日神社から神鹿2頭を貸与された、という記録が、今日春日 大社に残っている。
                               -櫟谷七野神社HPより-

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櫟谷七野神社の基本情報

住所

京都府京都市上京区大宮通盧山寺上る西入 社横町277番地

行き方
アクセスを詳しく見る
名称

櫟谷七野神社

読み方

いちいだにななのじんじゃ

通称

賀茂斎院跡、櫟谷七野春日神社

御朱印あり
限定御朱印なし
御朱印帳に直書きあり
御朱印の郵送対応なし
御朱印帳なし
電話番号075-462-0132
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページwww.ichiidaninananojinja.com

詳細情報

ご祭神高沙大神,春日大神,武甕槌命
創建時代

850年(嘉祥3年)

創始者

文徳天皇

ご由緒

社伝によれば平安時代55代文徳天皇(850年)皇后藤原明子ご懐妊の際、その安産お祈りのため、産殿の西方に大和国三笠山から春日の大神をお迎えして祈願したところ、儲君・後の清和天皇をご御平産になったと伝えられる。
 その春日大社御鎮座の場所が山城国葛野郡(かどのぐん)櫟谷(いちいだに)である。当時は櫟の森を谷川が流れていたのであろう。また、社名の「七野」とは、もと船岡山麓一帯にあった原野で、紫野・禁野・柏野・北野・平野・蓮台野・内野(神野・神明野・萩野・御栗栖野)のこと。これら七野の惣社として祀られたと伝えられる。伊勢神宮の斎院に準じて設けられた紫野斎院が廃絶された時、その屋敷神を七神祀った社だったと言う説もある。

 この七つの野に神供田があり、その石高は合わせて七百五十石に及んだという。
 この神社に、離れてしまった天皇の愛を復活させてほしいと祈ったのは、59代宇多天皇(894年)の皇后。社前の白い砂を三笠山の形に積み、祈願せよと のお告げを得て、その通りに砂山を作り祈った所、天皇の愛情が戻ったという。それ以来、社前に白砂を積めば浮気封じ・愛の復活の願いが叶うといわれ、社前 に積む砂も「高砂山」と呼ばれる様になった。
 その後、応仁・文明の戦乱時代、この七野あたりは細川勝元と山名完全が相対峙する戦場と化したため、社頭は殆ど灰燼に帰したのを、大内義興の台命あって永正9年(1582年)2月、七野各社を高台の一所に集めて再興がはかられた。

 織田信長が遊宴のために社を麓に引き下ろし、その跡に高殿を建てて神域を穢したことが、後に豊臣秀吉に聞え、秀吉は山内一豊をして再建せしめた。その 時、秀吉は各大名に石垣の寄進を命じ、その石には大名の家紋などが刻まれている。今は土や苔で見えにくくなっているが、秀吉の篤信が偲ばれる。
 以後、特に禁裏・仙洞・女院御所の崇敬篤く、大火焼失等の都度、これらからの再興がはかられてきた。
 なお、当社では、昔から毎年春になると、どこからともなく一頭の鹿が神前に現れるのを、奈良へ送るということがあった。明治6年(1872)以後見られ なくなったのであるが、この神縁により、明治28年(1895)、当社よりの依頼により奈良の春日神社から神鹿2頭を貸与された、という記録が、今日春日 大社に残っている。
                               -櫟谷七野神社HPより-

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