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さいえんじ|単立指月山

西圓寺
京都府 北野白梅町駅

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soo_cyan
soo_cyan
2026年03月20日(金)5202投稿

般舟院陵、嘉楽中学校のさらに東にある寺院。参道先に本堂があり、その横には近代的なビル建物がある。西圓寺は2018年に単立寺院として誕生しているが詳細は不明。この地には2011年まで天台宗の般舟院という寺院があった。嘉楽中学校の前に「禁裏道場蹟」の石碑があり、調べるとかつては天皇家の菩提寺でもあったそう😲天王寺の菩提寺といえば御寺・泉涌寺のみというのが今の解釈ですが、かつて「御寺」と称する寺院が二つ存在していたことになります。享保十五年の火災で伽藍に甚大な被害を被った般舟院はその再建に際し財政出動を幕府に願い出ますが、京都所司代よりと「御寺」と称す寺院が二つ存在することに疑義が出され、般舟院は提出した願書の中で泉涌寺と共通する自院の機能として「禁裏御黒戸与相立 御位牌奉安置」ことをあげ、さらに天皇誕生日に祈禱を仰せ付けられてそれを執行していること、毎月御経を献上して下行を拝領していること、毎年正月に「末広扇子」を下賜されていること、元日に「御茶」や「御膳具」などを献上し、禁裏御所に安置されている元三大師像を借り受け掲示していること、の四点を他寺院にはみられない般舟院独自の天皇家との由緒として主張する。また、般舟院は自らは「禁裏御仏殿」、泉涌寺は「御葬礼所」であるとの認識を示し、泉涌寺はあくまで天皇家の被葬寺院であるとした上で、「御中陰之節并御年回之聖忌之節」、すなわち中陰法要と「年忌法要」の際は、「当院泉涌寺両寺」で法要が行われると説明する。その一方で、「毎年御正忌之御法事者当院斗江被 仰付、於他寺者御沙汰無御座候事」と般舟院の専管事項としては、毎年行われる「回忌法要」があると主張することで、これらの法要には泉涌寺を含む他寺院の関与が全くないことを強調している。とあります。つまり天皇家の法事等に関しては当寺のほうが格式が上であると言わんばかりの発言であり、実際近世の天皇家の追善仏事の開催は般舟院がもっとも多かったらしいです。しかし徐々にその地位を泉涌寺に奪われていき、極めつけは神仏分離の際に官令により、寺の維持に適性を欠いたとして、歴代皇室の尊位牌は泉涌寺に遷され宮内庁からの保護料下付も停止になったのが決定打となり、以後転落を余儀なくされたようです。結局2011年に境内地は競売にかけられ、北海道の法人が取得したらしいのですがそちらと西圓寺の関係はわかりません。何とも悲しい結末を迎えた寺院の末路ですね…😥

西圓寺(京都府)

参道と寺号表札

西圓寺(京都府)

本堂。般舟院の唯一の名残らしい。

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西圓寺の基本情報

名称西圓寺
読み方さいえんじ

詳細情報

ご本尊阿弥陀如来
山号指月山
院号般舟院
宗旨・宗派単立
創建時代1464年
開山・開基後土御門天皇 開山:恵徳上人善空
ご由緒

 今出川通沿い、般舟院前町の嘉楽中学校前に、「禁裏道場蹟」の大石碑が立つ。その北に、かつて、「般舟院)」、正式には「般舟三昧院」があった。
 般舟院は文明年間に後土御門天皇の勅願によって三鈷寺・二尊院の兼帯住持であった善空恵篤を招請して開山・創建された寺院で、その維持・経営は創建以後「浄土宗西山派」系の「門中」寺院(二尊院・遣迎院・三鈷寺など)の寺僧によって
なされていた。当該期の浄土宗西山派は、後土御門の熱い尊崇を受けたことで数々の寺院が再興されていたほか、天皇・女官への圓頓戒授戒など、宮中の浄土信仰も広がりをみせていたという。また般舟院は少なくとも十七世紀中葉以降は、四宗兼学(浄土・律・天台・真言)の道場として広く認知されており、二尊院・廬山寺・遣迎院と共に「四箇院」と称したまとまりを形成して、天皇・女院らの追善仏事へ勤仕することが確認できるようになる。
 般舟院は十六世紀末までは洛外伏見に寺地を有していたが、その後洛中に移転したとされる。近世の地誌類などは、この点を豊臣秀吉による伏見城建設とそれに伴う都市改造の影響を受けたものと説明している。しかして川上貢氏は、文禄四年(1595)に般舟院の移転工事が着工し、慶長四年(1599)以降に千本今出川へ新造されたことを指摘し、の背景には︑伏見城築城による影響というよりも般舟院がそれまで洛外の不便な地域に位置していたため、当該期の京都の都市改革に乗じて移転が図られたものと推測している。二尊院以下、廬山寺・三鈷寺・浄金剛院の四ヶ寺住持の連名で、荒廃している般舟院を「洛陽地へ移転させることが願い出されており、朝廷に宛てて発給された連署状の写しが残されている。文禄期の火災による炎上を契機に豊臣政権下で移転が図られ、それを継承した徳川家の援助を受けて、十七世紀初頭に上京西陣の地に伽藍が新造されて復興した。 
 十六世紀以来、般舟院と泉涌寺は天皇家の葬礼・仏事をめぐって対立の様相をみせる。弘治三年(1557)に死去した後奈良天皇の中陰法要は、三好政権の裁許により例外的に泉涌寺が差配したものの、その次の正親町天皇の中陰法要以後、十七世紀初頭にかけての天皇・女院の中陰法要はいずれも般舟院において執り行われた。
 宝永期の東山上皇の中陰法要では、両寺院において着座公卿の派遣を同格にすることが定められ、以後幕末に至るまで同様の形式が踏襲されることになる。
 1869年、太政官布告により、泉涌寺、般舟院以外での菊の紋章使用が禁じられている。
  1876年、官令により、寺の維持に適性を欠いたとして、歴代皇室の尊位牌は泉涌寺に遷された。寺地は嘉楽小学校の校地になる。以後、宮内庁からの保護料下付も停止になる。2011年、般舟院の土地と建物は競売により、他の法人に所有権が移り、廃寺となる。2018年に単立寺院である西圓寺として再建される。

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