だいしょうぐんはちじんじゃ
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楽しみ方大将軍八神社のお参りの記録一覧(6ページ目)

北野天満宮のすぐ近く。
住宅商店街中に鎮座しています。
静かでたくましい雰囲気です。
御朱印帳のデザインが素敵でした。








たわらやさんの名物うどん。
普通のうどんより太く麺は2本です。

#大将軍八神社
ご祭神はスサノオの尊、アマツヒコネの命、アメノオシホミミの命、イチキシマヒメの命、タキリヒメの命、タキツヒメの命、アメノホヒの命、イクツヒコネの命、クマノクスビの命。
#素盞嗚尊
パンフによれば、ここ大将軍八神社はもともと陰陽道のお堂で、大将軍神という方位を司る星神を祀っていた。だが江戸時代、大将軍神をはじめとする八将神という方位神と、スサノオの尊やその8柱の御子神が習合した。
#天津彦根命
ご祭神9座のうちスサノオの尊を除く8座は、スサノオの尊とアマテラス大神の”うけい”によって誕生した神々。アマテラス大神の勾玉から5柱の男神が、スサノオの尊の剣から3柱の女神が生まれた。
ところで、日本書紀の別伝には、アマテラス大神の御子神は6柱いたとするものがある。
本文や古事記では、アメノオシホミミの命、アメノホヒの命、アマツヒコネの命、イクツヒコネの命、クマノクスビの命の順で誕生するが、別伝によれば、5番目にヒノハヤヒの命が生まれ、クマノクスビの命は1つずれて最後の6番目とする。
なお、古事記にもヒノハヤヒの神は登場する。ただ家族関係が全く違っており、カグツチの神の血からタケミカズチの神やクラオカミの神と共に生じたとする。


現存する文献上最初の記述は『山槐記』にあり、治承2年(1178年)11月12日に高倉天皇の中宮建礼門院の安産祈願のため奉幣使が参向した41社の内の1社として記されている。
室町時代には応仁の乱によって荒廃したが、神社として復興した。
江戸時代に八将神の信仰が強まりを見せると祭神の大将軍が素戔嗚尊(牛頭天王)と習合し、八将神は素戔嗚尊の御子神八柱もしくは牛頭天王の眷属である八王子と習合して祀られるようになった。その際、大将軍とは素戔嗚尊でもあり、また御子神八柱のうちの天津彦根命でもあるとされた。その理由は、大将軍堂は暦応3年(1340年)から約100年の間は祇園社(現・八坂神社)の管理下にあり、八坂神社の祭神が素盞鳴尊であり、その神格が大将軍神と似通っている事から関連付けられたためと考えられている。
こうして社名は大将軍八神宮と改称され、大将軍社とも呼ばれるようになった。
江戸時代には方除厄除12社参りが流行し、その時期に建立された天保11年(1840年)の標石は現在も門前にある。
明治時代に入ると神仏分離の流れの中で、正式な祭神は素戔嗚尊とその御子神八柱に変更され、社名は大将軍八神社となった。また、府社に列せられている。
大将軍は建築や転居、旅行などにおいて方角の吉凶を司る神であるため、大将軍八神社は長きにわたり民間の崇敬を集めた。
神仏習合、分離を日本は繰り返して来たのでかなり神仏に曖昧な部分もあるが、そこは日本の宗教に関して大らかな風習があるので変革を繰り返しながら今日に至っています。
神学を深く学ぶウチに納得行かない点も多々ありますが、そこは神様に生かされている今を大切にする気持ちで活動していますので割り切っております🙏😌🌿
インドの女神サラスヴァティーが起源の神が弁財天で更に七福神になり、更には日本の市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と弁財天は、神仏習合により同一視された神様です。元々、市杵島姫命は水の神様で、後に芸能や財運の神として親しまれる弁財天と同一視されるようになりましたなどなど😅
凄く安易に簡単に習合しちゃうのが、日本ならでは…

筆運びも勇ましい御朱印



権現造の美しい社この

このすぐ近くが大将軍と言う町名だが、此方の神社とは読み方が違う。











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