さんじゅうさんげんどうほんぼう みょうほういんもんぜき|天台宗|南叡山
三十三間堂本坊 妙法院門跡のお参りの記録一覧
東山、妙法院門跡を参拝しました。
妙法院門跡は天台宗三門跡のひとつです。もともとは平安時代に蓮華王院の別当寺としてはじまったようです。かつては、蓮華王院三十三間堂や方広寺、国立博物館敷地なども至る広大な敷地を誇っていたようですが、明治以降、博物館用地の勘収もあり、現在の形となりました。また、国宝の庫裏は現在大規模修復中。
境内はだいぶ小さくなりましたが、大書院の狩野派襖絵や不動明王像など貴重な文化財も妙法院にあります。
連休明けの静かな週末で、参拝の方も自分のみ、穏やかな時間でした。
御朱印は本尊の普賢延命菩薩さま。
基本は非公開で、かつ庫裏修復中というせいか、門は閉ざされていて、北側のここから境内へ。
門は閉鎖されています。
大玄関。
こちらの門も閉鎖
宸殿。
本殿。
修復前の庫裏の
京都市内の寺院巡りの3寺目は、東山区に在る南叡山 妙法院です。京都国博の東側、智積院の北側です。妙法院は通常非公開で毎月14日に本尊の普賢菩薩が公開されるのみ。年に1日、5月14日に行われる「五月会」では、本尊を始め、大書院、宝物館、庭園が無料公開されます。よって、この5月14日に京都に訪れた次第です。
天台宗で、本尊は普賢菩薩。
この本尊・普賢菩薩騎象像は重文です。
創建や歴史の詳細は不明で諸説ある様です。
1227年に尊性法親王(後高倉院皇子)が入寺以来、門跡寺院となる。1595年に豊臣秀吉による方広寺の大仏殿建立に伴い、妙法院は大仏経堂とされ、大仏殿境内に移転。豊臣家廃絶後の1615年に新日吉神社、蓮華王院(三十三間堂)、後白河法皇御影堂、方広寺大仏殿は妙法院の管理下になる。1868年に神仏分離により、新日吉神社が分離、方広寺は独立、管理してきた後白河院陵は宮内省に移管。(現在も三十三間堂を所有・管理) 1954年には境内の一部であった庭園「積翠園」の大部分を売却、現在はフォーシーズンズホテルレジデンス京都になっています。
8台位停めれる駐車場はありますが満車だろうと予想して、京都国博横のコインパーキングに停めたままの状態で、先の養源院から向かいました。唐門も表門も閉ざされたままでしたので、ホテルの入口の様な一番北側から境内へ。国宝の庫裏は令和の大改修中で覆われていました。申し込めば工事の現場を見ることが出来ましたが時間の関係でパス。大玄関の前を通り、唐門の前に(唐門からは入いれませんが)拝観受付があり、「五月会」のリーフレットと「願い散華」を頂き、用意されていた長テーブルで散華に願い事を書きました。拝観受付の裏側には多数の石仏。
開かれた柵から入ります。こちらの寺院も堂内撮影禁止です。先へ行くと右斜め前に本堂(普賢堂)、左側に寝殿で、先ずは本堂へ。手前から本堂を撮影すると木々に隠れて全容がわからなかっため、近付いてから撮ろうとカメラを構えた所、撮影禁止ですと注意されてしまった。(堂内は撮る積りはなかったが、係員からは堂内を撮ると思われたのかな?) 他の建物はやたら大きいのに本堂は小ぢんまり。本尊・普賢菩薩騎象像の前まで行けて、その前に散華を奉納しました。普賢菩薩騎象像は高さ約58cm、平安時代末期の作、六牙の白象に乗って合掌しておられます。繊細、柔和、端正。素晴らしい像です。普賢菩薩は女性からの信仰が厚く、女性受けするお姿だと思いました。本堂を出て、次に寝殿へ。寝殿から入って建屋内や庭を拝観します。寝殿の本尊は阿弥陀如来(だと思います。) その横の間に納経所が設えていて御朱印を頂きました。それから廊下というか縁側というか順路に従って拝観しましたが、境内図が無いため正直何処に居るのかわからずでした。(庭園の周りを1周した?)最後に宝物館(龍華蔵?)を通り、寝殿に戻ってきました。
五月会か特別拝観がある時に再度参拝して、メモをしっかり取りながら拝観しようと思います。
妙法院を出てから、京都国博へ行って、親鸞聖人生誕850年特別展「親鸞─生涯と名宝」を観てきました。
御朱印
本尊普賢尊と書かれています
唐門
表門
庫裏(国宝)令和の大改修中
大玄関
頂いた「願い散華」とリーフレット
本堂(普賢堂)
木々に隠れて全容は撮れていません
花手水
本尊・普賢菩薩騎象像
(ネットから転載)
寝殿
オマケ∶参拝後に京都国博へ
通常非公開なので殆ど人がいらっしゃらないお寺さんですがお参りは出来ます。
事務所の扉を開けて呼び出して御朱印を頂くのはなかなか勇気が・・・(苦笑)
ここの寺宝は国宝が多く含まれているようで、特別公開時にもう一度行ってみたいかな?と思いました。
境内はさほど広くはないのですが、全盛期には博物館や方広寺、三十三間堂、新日吉神宮を含む大伽藍だったようですね。
現在も三十三間堂はここの飛地塔頭です。
歴史をみればなんと世渡りのいい行動をと(苦笑)
そのおかげでの大伽藍だったようですね。
結局明治の廃仏毀釈により、ここもまた煽りを受け、現在の大きさになったようです。
事務所
庫裏(国宝)秀吉が大仏殿を建立した時、日本仏教の八宗(天台、真言、律、禅、浄土、日蓮、時、一向)の僧を集めた「千僧供養」を「大仏経堂」で行った。この「大仏経堂」は妙法院に所属し、千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、現存する妙法院庫裏(国宝)だとされている。庫裏自体の正確な建立年代は不明だが、秀吉の千僧供養に妙法院が関与していたことは当時の日記や文書から明らかであり、妙法院は遅くとも16世紀末には現在地へ移転していたことがわかる。(wikiより)
庫裏(国宝)
大玄関
唐門
宸殿
本堂
10月桜がまだ咲いていました。
【妙法院】
●概要
山号:南叡山
開山:最澄
宗派:天台宗
●歴史
妙法院ははじめ比叡山延暦寺の西塔に創建され、鎌倉時代に現在の建仁寺の北の辺りに移されました。1227年には、後高倉院の息子・尊性法親王が天台座主に就任するにあたり、妙法院は門跡寺院へと改められました。その際に、膨大な寺領と勢力を誇ったため、綾小路宮とも呼ばれました。
(※門跡寺院・・・皇族や公家の方が代々住職に就任されるお寺のこと。)
今でも粟田口青蓮院・大原三千院 と合わせて「天台三門跡」。これらに山科毘沙門堂と一乗寺曼殊院を合わせた「五ヶ室門跡」の一つにも数えられ、高い格式を誇っています。
室町時代に妙法院は応仁の乱によって荒廃しますが、桃山時代に豊臣秀吉によって再興されていきます。江戸時代には、現在の場所に移され、幕府から三十三間堂や方広寺、新日吉社の管理を任されるほどでした。 現在でも三十三間堂の本坊として知られています。 幕末、1863年には三条実美や三条西季知をはじめとする7名の公卿らが落京した「七卿落ち」の舞台となりました。
●境内
▶庫裏(国宝)
お寺の玄関口とされ、一番最初に入る建物が庫裏。
庫裏というのは寺院における台所のことを指し、妙法院の庫裏はその大きさから台所の機能のみならず、内政の総括所としての機能を携えていました。妙法院の庫裏は国宝に指定されており、庫裏単体で国宝に指定されているのは、妙法院と宮城県の瑞巌寺の庫裏の2つのみです。
妙法院の庫裏は台所の機能に特化した構造で、調理中の煙を出すために土間と板間には天井を張っていません。柱や梁をそのまま見せた化粧屋根裏の野天井が特徴的です。
桃山時代、豊臣秀吉が方広寺大仏建立の際に亡くなった父母を弔うために、1000人の僧に食事を振る舞い法要を行う千僧供養を行いました。その際に、妙法院の庫裏が用いられ食事がふるまわれたと伝えられています。
▶大書院
庫裏の後、廊下を渡った先にある建物が大書院で、重要文化財に指定されています。古くは梅の間と称され、公的な対面所として用いられていました。
襖絵は、狩野永徳の息子・狩野光信筆とされる「花鳥図」が描かれています。一般的に光信の作品は大和絵風の柔らかいタッチの絵が多いのですが、この花鳥図は豪快で荒削りな作風が特徴です。
襖を挟んだ隣の部屋の襖には、同じく狩野光信筆とされる「唐美人図」が描かれています。この襖絵には丹の具、朱の具、胡粉などの文字が書かれているのがうっすら見え、これらは光信が弟子たちに下書きの指示をした印であるといいます。
桃山時代から襖絵の大量生産が行われたことが伺える襖絵です。
▶お庭
大書院の前にあるお庭は、伏見城のお庭を縮図したものだと伝えられています。お庭には瓢箪の形をした池があり、伏見城を築城した豊臣秀吉が縁起物の瓢箪を好んでいたために、瓢箪の形の池を作ったとされています。
その瓢箪型の池に架かる橋は楠の化石で珪化木が使われています。
▶護摩堂
大書院を進むと次にあるお部屋が護摩堂です。
護摩堂は「護摩行」という修法をおこなうための建物です。護摩行とは天台宗や真言宗などの修行の一つで、護摩木という細長い木を炎の中に入れて燃やし、煩悩を焼き尽くして無病息災などを祈るもの。
護摩行は本来は7日間、1日3回の合計21ヵ座行われます。現在の妙法院ではお正月と年末の年2回行われるとのことです。
護摩同の正面には不動明王像が安置されています。この不動明王は、897年に一木造りで作らた天台宗最古の不動明王像です。
▶内仏堂
護摩堂の隣のお部屋が内仏堂で、歴代のご住職や豊臣秀吉、有栖川威仁(たけひと)親王のご位牌が安置されています。
有栖川威仁親王は、和宮の元婚約者・有栖川熾仁(たるひと)親王の異母弟で、有栖川宮家最後の親王です 。
有栖川威仁親王は江戸時代末期に妙法院の次期住職になる約束を交わされていましたが、明治維新の動乱の中で相続は取り消さてしまいます。この関係から、内仏堂には有栖川威仁親王のご位牌が安置されています。
▶龍華蔵
龍華蔵は妙法院の宝物館のような役割を果たしています。
豊臣秀吉や皇族ゆかりの品々がたくさん保管されています。
代表的なものは…
・ポルトガル国印度副王信書(国宝)
…ゴア総督のドン・ドゥアルテ・ル・メネーゼスが豊臣秀吉にあてて書かれた手紙。イエズス会宣教師ヴァリニャーノが持ってきたもの。
・後白河法皇像
…鎌倉時代初期に書かれた、現存最古の後白河像。
・釈迦三尊像
…安土桃山時代の作。中国の影響を強く受けている像。
などなど多くの寺宝を見ることができます。
▶宸殿
拝観順路を進み、一番最後に入る建物。
宸殿とは門跡寺院のみに建てられる建物で、重要行事を執り行う中心的なお堂です。
・竹鶏図
…お部屋に安置されている竹と鶏が書かれた衝立。江戸時代に円山応挙によって描かれたもの。
円山応挙は写実的な画風を得意とする円山派の祖で、この作品も緻密な写生画法を用いて雌雄の鶏と雛を華麗な彩色で描いています。
・七卿落ち図
…大正時代に描かれた掛け軸。
妙法院の宸殿も幕末の動乱の舞台の1つになりました。
今から150年ほど前の1863年8月18日に、尊王攘夷の機運が高まる中、薩摩藩を中心とする公武合体派によるクーデターが発生します。これが「八月十八日の政変」です。
幕末、京都では長州藩士たちによる倒幕運動が活発化していました。長州藩士たちは長州寄りの公卿と共に、孝明天皇の『攘夷親征の詔』を貰おうと考えます。つまり「外国を打ち払うための天皇のお言葉を得よう!」と計画したのです。『攘夷親征の詔』を得ることができれば、「攘夷(=外国を追い払う)を決行しない幕府は天皇の詔に反している!」という大義名分を得ることができ、倒幕が実現に移せるためでした。
そして長州藩は天皇が大和行幸を行うという旨を発表します。
(※大和行幸…大和国(現.奈良県)の神武天皇陵や春日大社で攘夷を祈願し、攘夷親征の軍議を行い、伊勢神宮まで参宮するもの)
しかし、大和行幸は長州藩による偽物の勅命で、孝明天皇の知らない所できめられていました。
会津藩や薩摩藩はこの大和行幸を不審に思い、皇族の中川宮卿を通して孝明天皇に事の真偽を確認したところ、大和行幸は偽りだということが判明しました。そして、孝明天皇は「兵力を持って京都から長州を排除するように」と勅命を下します。この勅命を受けて薩摩藩・会津藩は八月十八日に京都御所の全ての門を封鎖し、長州藩を御所に立ち入れないようにします。長州藩は異変を感じて御所へ駆けつけ、薩摩藩・会津藩との戦も辞さない勢いでしたが、桂小五郎などが「一旦、長州に下がって体制を整えるべきだ」と主張し、戦闘は回避されました。
そして、長州寄りの7名の公卿たち、所謂「七卿」はこの妙法院宸殿へと集まり、密議を交わします。その際、薩摩藩と一戦交えるべきという意見や、長州へ落ち延びるべきなどの意見が出され、激論が交わされました。結果、長州へ落ち延びるべきだ、という結論に至ります。そして翌19日、小雨の降る中、7名は長州へ落ちていきました。この出来事を七卿落ちと言います。
この掛け軸には、蓑や笠をかぶっている七卿が描かれ、禁門の変で亡くなった久坂玄瑞を初めとする長州藩の兵士らに警護され、七卿が長州へと落ち延びる様子が描かれています。
・妙法院御境内図
…七卿落ちの掛け軸の近くにある妙法院の境内を描いた屏風は1867年に描かれたもので、「七卿落ち」の前夜の様子を描いています。七卿を守るために、長州軍の大勢の警護の侍が槍をもって立っている様子や馬に乗って走っている様子、警戒のためのかがり火など、公武合体派と尊攘派の一触即発の緊迫した状況が事細かに描かれております。
東大路通に面した門。基本的に内部は撮影禁止。外の画像全く残ってなくてワロタ
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