あんらくじ
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楽しみ方安楽寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年12月20日(金) 00時04分30秒
参拝:2024年11月吉日
【住蓮山(じゅうれんざん)安楽寺(あんらくじ)】
本尊:阿弥陀如来
宗派:単立(浄土宗)
開基:住蓮上人・安楽上人
安楽寺は、京都市左京区鹿ヶ谷に位置します。法然上人の弟子、住蓮上人と安楽上人が、現在地より東1㎞あたりに「鹿ヶ谷草庵」を結び、布教活動の拠点を持たれたのがこの寺のはじまりです。山門前の石柱には、「浄土礼讃根元地」と刻まれています。開山両上人は、唐の善導大師(ぜんどうだいし)の『往生礼讃』に大原魚山(天台宗)の礼讃声明(らいさんしょうみょう)を転用して浄土礼讃を完成されました。両上人が称える礼讃は誠にすばらしく、両上人の前で出家を希望する人もありました。
その中に、後鳥羽上皇の女官、松虫姫と鈴虫姫がおられました。両姫は、法然上人や開山両上人から念仏の教えを拝聴し感銘され、1206(建永元)年12月、後鳥羽上皇が紀州熊野に参拝の留守中、夜中秘かに京都小御所を忍び出て「鹿ヶ谷草庵」を訪ね剃髪、出家を乞い、法名を授かります。この事を知った上皇は激怒し、念仏の教えを説く僧侶に弾圧を企てます。翌建永2年2月9日、住蓮上人と安楽上人は斬首されました。また、法然上人を讃岐国に流罪、親鸞聖人を越後国に流罪に処します。(建永(けんえい)の法難)
両上人の亡き後、「鹿ヶ谷草庵」は荒廃しましたが、流罪地から帰京された法然上人が両上人の菩堤を弔うために草庵を復興するように命ぜられ「住蓮山安楽寺」と名付けられました。その後、天文年間(1532-1555)に現在地に本堂が再建され、今日にいたっています。
真如堂から哲学の道を横切り安楽寺へ。真如堂を出たころから予報通り雨が降ってきました。趣のある茅葺の山門が迎えてくれました。悲しい物語が伝わる安楽寺には雨が似合っているのでしょうか。
本尊:阿弥陀如来
宗派:単立(浄土宗)
開基:住蓮上人・安楽上人
安楽寺は、京都市左京区鹿ヶ谷に位置します。法然上人の弟子、住蓮上人と安楽上人が、現在地より東1㎞あたりに「鹿ヶ谷草庵」を結び、布教活動の拠点を持たれたのがこの寺のはじまりです。山門前の石柱には、「浄土礼讃根元地」と刻まれています。開山両上人は、唐の善導大師(ぜんどうだいし)の『往生礼讃』に大原魚山(天台宗)の礼讃声明(らいさんしょうみょう)を転用して浄土礼讃を完成されました。両上人が称える礼讃は誠にすばらしく、両上人の前で出家を希望する人もありました。
その中に、後鳥羽上皇の女官、松虫姫と鈴虫姫がおられました。両姫は、法然上人や開山両上人から念仏の教えを拝聴し感銘され、1206(建永元)年12月、後鳥羽上皇が紀州熊野に参拝の留守中、夜中秘かに京都小御所を忍び出て「鹿ヶ谷草庵」を訪ね剃髪、出家を乞い、法名を授かります。この事を知った上皇は激怒し、念仏の教えを説く僧侶に弾圧を企てます。翌建永2年2月9日、住蓮上人と安楽上人は斬首されました。また、法然上人を讃岐国に流罪、親鸞聖人を越後国に流罪に処します。(建永(けんえい)の法難)
両上人の亡き後、「鹿ヶ谷草庵」は荒廃しましたが、流罪地から帰京された法然上人が両上人の菩堤を弔うために草庵を復興するように命ぜられ「住蓮山安楽寺」と名付けられました。その後、天文年間(1532-1555)に現在地に本堂が再建され、今日にいたっています。
真如堂から哲学の道を横切り安楽寺へ。真如堂を出たころから予報通り雨が降ってきました。趣のある茅葺の山門が迎えてくれました。悲しい物語が伝わる安楽寺には雨が似合っているのでしょうか。
すてき
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