しんはせでら
新長谷寺のお参りの記録一覧
![れん太郎](https://minimized.hotokami.jp/klJhe-4g_0v27n8tiLBADhSmUQ6Z3-izMntujfRl87s/s:30:30/q:20/plain/https://hotokami-user.s3.amazonaws.com/20240506-060603_5ysOc37qcF.png@webp)
御本堂を目指していると左手に新長谷寺様が見えてきます。
新長谷寺様は天台宗の御寺様です。
藤原山蔭が幼い頃、大荒れの海に転落したところ大亀に救われました。この亀は前日に山蔭の父である高房が漁師に捕らえられているところを助けてあげた亀でした。
山蔭は後妻を娶ったのですが、その後妻は先妻の子が疎ましく、海に突き落とすのですが、またもや自身を救ってくれた亀がその子を救ってくれます。
山蔭は二度も厄難を救ってくれた大亀は観音様の御加護だと感謝し、長谷寺様の十一面観音像を模造し、これを御本尊として吉田神楽岡の麓の邸宅に 新長谷寺を建立されました。
その後、明治の廃仏毀釈の時に真正極楽寺様の境内に移転されています。
この辺りの寺社を調べていると藤原山蔭の名前がよく出てきます。
![nomuten](https://minimized.hotokami.jp/Rv-8ZWgeB9pFVo3J7MhQihfPFJEg2MGrFTphwGGzsn0/s:30:30/q:20/plain/https://hotokami-user.s3.amazonaws.com/20210109-145940_sCLpi0WCse.jpg@webp)
京都市内の寺院巡りの2寺目は、真正極楽寺(真如堂)の境内に在る新長谷寺です。
天台宗で、本尊は十一面観音。
こちらも真如堂参拝時と同じく3年前の2021年11月15日に参拝していますので2度目になります。(前回分は投稿済ですので、宜しかったら見てやって下さい。)
洛陽三十三所観音霊場 第五番札所。
メインの参道沿いに在る訳ではないし、小さな寺号柱のため目立ちませんし、洛陽三十三所観音霊場を廻っている方を除いて殆どの方は知らないと思います。実際、手を合わせる方もごくごく僅かでした。
明治時代初期の神仏分離、廃仏毀釈で真如堂の境内に遷されました。お堂が1つあるのみで、戸口から格子越しに本尊・十一面観音立像が覗けます。なかなかの仏像だと思いますが無指定、近世に彫り直し等の改変がされているのでしょうか?
御朱印は真如堂で頂く事になりますが、前回頂いており、同じ御朱印だと思いますので、今回は頂いておりません。
本尊・十一面観音立像
(ネットから転載)
![くるくるきよせん](https://minimized.hotokami.jp/VLBuyTKRXAPIrvNRBvAHWz__WZJrek2jtfzsKt6NZyw/s:30:30/q:20/plain/https://hotokami-user.s3.amazonaws.com/20221231-185127_R773pR4u7E.jpg@webp)
真正極楽寺の境内にあります。ですが塔頭ではないようです。
洛陽三十三所観音霊場第5番札所と書いてありました。
比較的新しそうな建物でした。
内陣が見えるようにしてくださっていたので 写真を撮らせていただきました。
観音様をしっかり拝顔できたので嬉しかったです。
御朱印について調べてみたら 真正極楽寺の本堂で拝受できると分かりましたので 再び本堂へ伺い 拝受できました。
由緒については
陽成天皇(貞観18年(876年)- 元慶8年(884年))の頃 西国に赴こうとしていた藤原高房がその途中で大きな亀を助けた。
その後高房の子藤原山蔭が航海中に海に落ちてしまったが その亀が山蔭を助けてくれたとする。
その数十年後 その山蔭が後妻と先妻の子を連れて九州におもむいた際 後妻が先妻の子を海に付き落とした。
すると またしてもあの大亀が現れてその子を助けてくれたとする。
この二度の出来事により 山蔭はあの亀は観音様が遣わしてくれたものに違いないと考え まず小さな観音像を二体製作し 一体は手元に置き もう一体を自領である摂津国島上郡のお堂(後の総持寺)に置いた。
そして長谷寺の十一面観音像と同じ大きな観音像を作り 更に八尺の観音像を御前立として吉田神楽岡の麓にある自邸に法相宗の新長谷寺を建立し 祀った。
明治時代に入り 廃仏毀釈で荒廃した後 付近の真如堂の境内地に移された。
とありました。
石柱
新緑の奥に本堂が見えます
碑
本堂のみです
比較的新しそうです
内陣の観音様
由緒書
ご詠歌
![イッシー](https://minimized.hotokami.jp/Dnll2RQ7MMI3KHvZbDCjLIUcOLd8t5RiBVPkEOmiR0c/s:30:30/q:20/plain/https://hotokami-user.s3.amazonaws.com/20230502-135536_Hawfj08c9I.jpg@webp)
新長谷寺 令和4年10月29日
洛陽三十三所観音霊場第五番の御朱印を頂きました
洛陽三十三所観音霊場納経帖のページ
洛陽三十三所観音霊場第五番の御朱印
![さくら](https://minimized.hotokami.jp/DwvCBoB9JsPKBHVPtz5BWZ9dc1tZiJJognfHW2k-4GY/s:30:30/q:20/plain/https://hotokami-user.s3.amazonaws.com/20210313-132032_LFY3QhMaCW.jpg@webp)
新長谷寺さんの御朱印は真如堂さんで授与して頂きます。
なので 真如堂さんへ
真如堂さんには京の通称寺の御朱印を頂きに行ったんですが、この御朱印を授与してもらって
なんか おかしい!!
ファイルに綴じるために穴が空いてますが
位置も違う!
「通称寺さんのですよね?」と確かめたのですが
「お寺によって違うのでしょう」ってことで
違ったら違ったでいいや
また お参りに来ようと思い
自宅に帰ってから調べてみたら
やっぱり違う(笑)
洛陽三十三所観音巡礼の御朱印でした〜
実は前回、洛陽三十三所観音巡礼の御朱印を頂いた時、新長谷寺さんがわからず、(真如堂の境内にある)
お参りに行ってなかったんです。
今回、場所も教えてもらってちゃんとお参りできました
新長谷寺さんにお参りに行ってない事も忘れてました。
1年越しで十一面観音菩薩さまにご挨拶できました。
御朱印が間違ってなければお参りには行かなかったと思います。
偶然?必然?
とりあえず感謝です。
洛陽三十三所観音霊場五番札所。天台宗。
十一面観音菩薩。
平安時代初期、陽成天皇の時代に、越前守藤原高房が西国に赴く途中、一人の漁師が大亀を殺そうとしている所に出くわし、これを助けた。翌朝航海中に海が荒れ、子供が海に転落。救助不能な嵐の中、昨日の大亀が子供を背中に乗せて現れ、子供は助けられた。
時を経て、その時の子が中納言藤原山蔭となり、妻と一子の家庭を築くも妻が病死、後妻を迎える。しかし後妻は先妻との子が疎ましくなり、太宰府長官赴任の船旅中に子供を海に突き落とす。悲嘆にくれた山蔭がその子を探していると、以前自分を助けてくれた大亀がその子をも救ってくれた。
山蔭は、二度までも救ってくれた大亀は観音様のご加護だと感謝し、奈良は長谷寺の十一面観音像を模造。八尺の大像を前立として吉田山の麓の邸宅に新長谷寺を建立しました。
ただし新長谷寺は明治の廃仏毀釈により廃寺となり、本尊である十一面観音像は真如堂に移設。現在に至ります。
あくまでもお寺としては真如堂とは別のお寺なのですが、管理住職不在寺のため、御朱印は真如堂にてお受け頂けます。
![ハマの「寺(テラ)」リスト](https://minimized.hotokami.jp/MX0mNoB2i7caYiUuG65Q-GGr3XQxEJHYFU9AY-0i7aw/s:30:30/q:20/plain/https://hotokami-user.s3.amazonaws.com/20250116-160006_Tv5tL7HVig.jpg@webp)
洛陽三十三観音再訪 その32
市バス「錦林車庫」バス停下車徒歩8分。洛陽三十三観音霊場第5番札所の天台宗寺院。ご本尊は十一面観音菩薩です。
起源は1200年前、西国に赴いた藤原高房が途中大きな亀に助けられたことがあり、その後高房の子である山蔭が航海中にやはり大亀に助けられたそうです。そして、先妻の子を海に捨てた際にその助けてもらった大亀二度も救われたことで、観音様の御加護として長谷寺の十一面観音を模造し、吉田山の神楽岡の麓の邸宅に建立したのが始まりです。
明治時代の廃仏毀釈により現在の真如堂に移されました。
真如堂の広い境内。本堂の左後側の一角に本堂があります。参拝者も少なくとても静かな札所でした。
京都府のおすすめ2選🎌
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