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清水寺ではいただけません
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清水寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年04月07日(水)
参拝:2021年3月吉日
京都府京都市東山区にある北法相宗の大本山の寺院。山号は音羽山。本尊は十一面千手観音菩薩。西国三十三所16番札所。1965年にそれまで属した奈良・興福寺(法相宗)から独立、北法相宗を名乗る。
京都でも平安京遷都以前からの歴史を持つ数少ない寺院の一つ。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び日本有数の観音霊場。鹿苑寺(金閣寺)や嵐山と並び、京都でも有数の観光地。ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の1つとして登録されている。
寺伝によると、創建は奈良時代の778年で、大和国・興福寺の僧・賢心(のち延鎮と改名)が夢のお告げで当地を訪れ、200歳の老僧・行叡居士(ぎょうえいこじ)に庵を託され、千手観音を刻んで安置したのが始まり。2年後の780年に坂上田村麻呂が延鎮に説かれ観音に帰依し、自邸を本堂として寄進、東国蝦夷平定後、本堂を大きく改築し、観音の脇侍として毘沙門天と地蔵菩薩を祀ったとされる。この縁起より、清水寺は行叡を元祖、延鎮を開山、坂上田村麻呂を本願としている。
平安期、805年に坂上田村麻呂が太政官符により寺地を賜り、810年嵯峨天皇の勅許を得て後任寺院となり「北観音寺」の寺号を受けた。この時期、文学作品にもたびたび現れ、『枕草子』や『源氏物語』、『今昔物語集』にも記載がある。
江戸期に至るまで、1165年の延暦寺の僧兵乱入や1469年の応仁の乱の兵火などによりたびたび焼失と再建を繰り返すが、江戸期に入り幕府から寺領を受け、1629年の火災の後、徳川家光により多くの伽藍が再建されている。
明治期に神仏分離令により、境内の地主神社が分離独立。1914年に興福寺住職・法相宗管長の大西良慶が清水寺貫主に就任、1965年に法相宗から独立し北法相宗を開宗した。
当寺は、JR京都駅からバスで東北東へ3km、五条坂バス停または清水道バス停から東へ1kmほどの音羽山の中腹にある。多くの伽藍がコンパクトに並び、本堂や奥之院の見晴し台からは京都市街地や山々が眺望できるなど、観光地としてのキラー要素が満載。何度行っても意外と飽きない。
参拝時は週末の午前中早めの時間、天気予報は大雨だったため参拝者は非常に少なかったが、実際の天気は小雨でじきに上がったため、桜満開の境内の参拝を満喫することができた。
京都でも平安京遷都以前からの歴史を持つ数少ない寺院の一つ。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び日本有数の観音霊場。鹿苑寺(金閣寺)や嵐山と並び、京都でも有数の観光地。ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の1つとして登録されている。
寺伝によると、創建は奈良時代の778年で、大和国・興福寺の僧・賢心(のち延鎮と改名)が夢のお告げで当地を訪れ、200歳の老僧・行叡居士(ぎょうえいこじ)に庵を託され、千手観音を刻んで安置したのが始まり。2年後の780年に坂上田村麻呂が延鎮に説かれ観音に帰依し、自邸を本堂として寄進、東国蝦夷平定後、本堂を大きく改築し、観音の脇侍として毘沙門天と地蔵菩薩を祀ったとされる。この縁起より、清水寺は行叡を元祖、延鎮を開山、坂上田村麻呂を本願としている。
平安期、805年に坂上田村麻呂が太政官符により寺地を賜り、810年嵯峨天皇の勅許を得て後任寺院となり「北観音寺」の寺号を受けた。この時期、文学作品にもたびたび現れ、『枕草子』や『源氏物語』、『今昔物語集』にも記載がある。
江戸期に至るまで、1165年の延暦寺の僧兵乱入や1469年の応仁の乱の兵火などによりたびたび焼失と再建を繰り返すが、江戸期に入り幕府から寺領を受け、1629年の火災の後、徳川家光により多くの伽藍が再建されている。
明治期に神仏分離令により、境内の地主神社が分離独立。1914年に興福寺住職・法相宗管長の大西良慶が清水寺貫主に就任、1965年に法相宗から独立し北法相宗を開宗した。
当寺は、JR京都駅からバスで東北東へ3km、五条坂バス停または清水道バス停から東へ1kmほどの音羽山の中腹にある。多くの伽藍がコンパクトに並び、本堂や奥之院の見晴し台からは京都市街地や山々が眺望できるなど、観光地としてのキラー要素が満載。何度行っても意外と飽きない。
参拝時は週末の午前中早めの時間、天気予報は大雨だったため参拝者は非常に少なかったが、実際の天気は小雨でじきに上がったため、桜満開の境内の参拝を満喫することができた。
参道を登り切った時に見える景色。左は<仁王門>、右は<西門>とその後ろの<三重塔>。
上写真の撮影位置から左を向くと<馬駐(うまとどめ)>。室町後期の再建。切妻造、瓦葺。国指定の重要文化財。
<仁王門>を見上げる。室町時代の再建。三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺。国指定の重要文化財。正面左右の金剛力士像は鎌倉末期のもの。
手前の<西門>は江戸初期の1631年再建。切妻造、檜皮葺、八脚門。西山に沈む夕日を見ながら西方極楽浄土を観想する日想観の聖所。
仁王門の背後にある<鐘楼>。1607年再建。
仁王門から参道を進んだ正面にある<随求堂(ずいぐどう)>。もとは塔頭・慈心院の本堂を1718年に移築したもの。
随求堂手前で右を向くと<三重塔>。1632年再建。高さ31m。国指定の重要文化財。
三重塔の先に建つ<経堂(講堂)>。1633年再建。入母屋造、瓦葺の五間堂。国指定の重要文化財。内部には釈迦三尊像を祀る。
経堂の先に建つ<開山堂(田村堂)>。1633年再建。入母屋造、瓦葺の三間堂。国指定の重要文化財。内部には坂上田村麻呂・高子夫妻像、行叡・延鎮像を祀る。
田村堂の先に建つ<轟門(とどろきもん)>。1639年再建。国指定の重要文化財。<普門閣>の扁額が架かる、有料拝観の入口。開山堂の対面に料金所がある。
轟門手前の<水屋>。
轟門をくぐると本堂へと続く<回廊>。突き当りを右に進むと<清水の舞台>。
回廊左手に建つ<朝倉堂>。1633年再建。入母屋造、瓦葺の五間堂。国指定の重要文化財。清水観音を篤く信仰した越前国守護大名・朝倉貞景の寄進。内部には秘仏の千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩の三尊、西国三十三所の観音像を祀る。
<清水の舞台>が見えた瞬間。こちら国宝<本堂>は1633年に徳川家光の寄進により再建。屋根は寄棟造、檜皮葺で正面左右に入母屋造の翼廊が突き出している。建物には舞台と呼ばれるせり出しがあり、釘なしで組み合わされた139本のケヤキの巨大柱が支えており、この構造を<懸造(かけづくり)>という。
<清水の舞台>から南を望む。ところどころにある桜の木が満開で春の景色。
<清水の舞台>を過ぎて左方向に進むと、本堂の裏手に<地主神社>。
<地主神社>の階段から順路の先を望む。写真右側手前が<授与所>、右側奥が<釈迦堂>、中央が<阿弥陀堂>、右側が<奥の院>。
まず<授与所>。御本尊の御朱印はこちら。(御朱印1/3カ所目)
授与所の奥にある<西向地蔵堂>。
西向地蔵堂の右隣にある<釈迦堂>。1631年再建。寄棟造、檜皮葺の三間堂。国指定の重要文化財。
釈迦堂の右隣にある<阿弥陀堂>。1631年再建。入母屋造、瓦葺の三間堂。国指定の重要文化財。阿弥陀様の御朱印はこちら。(御朱印2/3カ所目)
阿弥陀堂の右隣にある<奥の院>。1633年再建。寄棟造、檜皮葺の五間堂。国指定の重要文化財。本堂を望む見晴し台がある。
奥の院の裏手にある<濡れ手観世音>。蓮華水盤から柄杓に水を汲み、観音様の肩から掛けて諸願成就を祈願する。観光客はほとんど見に来ていなかった。
奥の院から見た本堂。満開の桜とともに。
本堂と京都市街地。
本堂全景。足場からの<懸造り>の構造がよく見える。
さらに南に進むと、三重塔から本堂までの伽藍が繋がって見える。
坂を下り、谷に下りると<音羽の滝>がある。
音羽の滝の前に建つ<滝の堂>。不動明王の御朱印はこちら。(御朱印3/3カ所目)
音羽の滝から本堂を見上げる。
有料エリアを出て、谷の反対側、成就院の近くに向かうと<中興堂>がある。1997年建立。中興開山・大西良慶和上の御霊屋。
中興堂の左隣の<春日社>。室町後期の再建。鎮守堂。国指定の重要文化財。
春日社の前から見た<三重塔>。満開の桜との美の競演。
すてき
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