とううんじ|曹洞宗
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京都市伏見区にあるお寺です。
山号は玉龍山
宗旨宗派は曹洞宗
ご本尊は釈迦如来
です。
石標が新しく さほど歴史のあるお寺ではないのかと思いながら門をくぐったのですが 本堂も薬師堂も立派でした。
調べてみると 平安時代末期に遡る古刹であることが分かりました。
詳しい情報がHPに載っていましたので 一部抜粋させていただきます。
淀に住み 石清水八幡宮に代々仕える身分であった河原﨑忠俊は 治承3年(1179)お薬師さまを祀るお堂を建てました。
お薬師さまを本尊とするお寺として 歴史が始まったそうです。
「東運寺」の名前にはこんな伝説もあります。
源義経が兄の頼朝に追われ 姿を隠していたときのことです。
河原﨑忠俊はある日 流れてきた義経をかくまい 淀川から船で逃がしました。
これが頼朝の怒りを買い 忠俊は打ち首を命じられます。
あわや刀がその首を切り落とそうとしたそのとき 鳩が2羽舞い降りて刀に止まったのです。
頼朝は この鳩を八幡神の使いとみて 忠俊を許します。
忠俊は、「東(鎌倉)」の「運」にかなったと感じ みずから建てたお寺の名を「東運寺」としたということです。
現在の地に東運寺が建てられたのは 1650年代であろうと言えるくらいで 正確にはわかっていません。
ただ 万治2年(1659)に曹洞宗となるという記録がありますので 当初から曹洞宗の寺院であったことは間違いないでしょう。
萬安禅師が開山に 尚政公が開基となって 興聖寺の後見寺として始まったのです。
本堂
薬師堂
庫裡
徳川2代将軍秀忠の老中であった永井尚政公が淀藩に入り、淀城の初代城主となった。
ある時、尚政公は、領内にあった道元禅師が日本で最初に開いた道場である「興聖寺(こうしょうじ)」が
今は廃絶していることを知った。
そのことを惜しんだ尚政公は両親の菩提を弔うため、伏見城の遺構を用いて宇治の地に再興した。
その時の住職が東運寺を開いたそう。
薬師堂
こちらの薬師如来は、、石清水八幡宮に仕える河原﨑忠俊(かわらさきただとし)の私物だった。
源義経が兄の頼朝に追われた時
忠俊は流れてきた義経をかくまい、淀川から船で逃がした。
これが頼朝の怒りを買い、忠俊は打ち首を命じられ
あわや刀が、その首を切り落とそうとしたそのとき、鳩が2羽舞い降りて刀に止まり
頼朝は、この鳩を八幡神の使いとみて、忠俊を許した。
忠俊は、「東(鎌倉)」の「運」にかなったと感じ、みずから建てたお寺の名を「東運寺」としたとされている。
東運寺の基本情報
住所 | 京都府京都市伏見区淀新町618-1 |
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行き方 | 京阪電鉄本線「淀」駅から徒歩で10~15分
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京都府のおすすめ❄️
名称 | 東運寺 |
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読み方 | とううんじ |
参拝料 | なし |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 075-631-2272 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | https://tounji.net |
SNS |
詳細情報
ご本尊 | お釈迦さま |
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宗旨・宗派 | 曹洞宗 |
ご由緒 | 寛永10年(1633)、徳川2代将軍秀忠の老中であった永井尚政(なおまさ・1587-1668年)公が淀藩に入り、淀城の初代城主となられました。
当時の淀は京都と大阪を結ぶ交通の要所であり、治安上のポイントでもありました。そんな重要地を任された尚政公は城下町の開発を進め、淀藩の基礎を築いたと言われています。 ちなみに、いま東運寺のある「淀新町」という地名は、そのときの開発によって新しく作られた町であったところから来ているようです。寛永14年(1637)から翌年にかけてのころです。 新しく作られた「淀新町」、つまり現在の地に東運寺が建てられたのは、1650年代であろうと言えるくらいで、正確にはわかっていません。
また、古い歴史を持つ薬師如来像も、おそらく同じ時期に今の場に祀られていただろうと思います。
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体験 | 御朱印 |
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