ごんじょうじ|曹洞宗大本山永平寺末|清涼山
御朱印・神社お寺の検索サイト
楽しみ方100年後に神社お寺を残せる未来へ
その他の巡礼の情報
欣浄寺について
曹洞宗開祖道元禅師ゆかりの寺・深草少将ロマンの地
京都府のおすすめ❄️
おすすめの投稿

墨染さくらまつりで開放されていたのでお参り。本堂で大仏さまをお参りして御朱印を拝受。若き未来の住職が受付されてました🤗写真撮影可とのことなので大仏さまと深草少将を撮影してまいりました🤗阿弥陀さん撮るの忘れた・・・😔こちらも桜がまだまだ満開とはいきませんが良い感じで咲き始めておりました🤗

また裏口(西側)から入ってしまった😅

深草少将像

伏見の大仏・毘盧遮那仏

こちらの桜もぼちぼち


深草少将と小野小町の塚

五重塔

弁天さんかな?

本堂 老朽化により昭和49年再建


墓所前釈迦牟尼仏

墨染さくらまつり
伏見大私特别拝観に行って来ました。
毘盧遮那仏
木造仏像として日本最大級の
伏見の大仏さん(約5.3m)にお会い出来るのは、墨染さくらまつりの日❣️
やっとやっとお会いしました🤗
阿弥陀如来像 道元禅師石像
深草少将張文像 等々安置されています。
深草少将
池の東には「少将の通い道」とよばれるものがあり、訴訟を持っている者がここを通ると願いがかなわないと言われていました。
小野小町を愛し、小町が「私の元へ百日間通い続けたら結婚してもいい」と言い、九十九夜通ったけれど、雪の降る日で、雪に埋まり凍死したとも言われている「百夜通い」の伝説があります。
山科の随心院に行くと、深草少将等が書いた手紙を埋めたとされる「文塚」は有名ですよね😊




















境内・文化財
境内・文化財をもっと見る|歴史
欣浄寺の境内は平安時代の初め、桓武天皇から深草少将善宜卿に邸地として賜ったもので、往時は八丁四面の広さであったと伝えられる。深草少将は弘仁3年(813年)3月16日に薨去し、この地に埋葬された。
欣浄寺の山号「清涼山」は少将の院号(法名・清涼院殿蓮光浄輝大居士)に由来する。
その後、仁明天皇の寵臣五位少将蔵人頭良峰宗貞(僧正遍昭)が帝の崩御に遭い、この菩提に念仏堂を建てて帝の御念仏の阿弥陀如来像と御尊牌を泰安して念佛浄業にふけられたと言われ、これが現在の欣浄寺の起源と伝えられている。
安貞元年(1227年)、求法のため渡っていて宋国から御帰朝された曹洞宗の宗祖道元禅師は、寛喜2年から天福元年(1230~1232年)宇治興聖寺に移られるまで当時に閑居された。当時は竹林山安養院といい、道元禅師「深草閑居」の旧跡と称されている。
欣浄寺は初め真言宗であったが、「応仁の乱」のあとで禅宗(曹洞宗)となり天正・文禄年間(1573~1592)に浄土宗とかわり、江戸時代末期の文化年間(1804~1818)再び禅宗(曹洞宗)に転じて現在に及んでいる。欣浄寺の寺号は「欣求浄土」からきており浄土宗時代に改名されたものと思われる。
現在阿弥陀如来像は寺宝として内陣に祀られてあり、丈六の毘盧遮那仏が本尊として中央に安置されている。
| 名称 | 欣浄寺 |
|---|---|
| 読み方 | ごんじょうじ |
| 通称 | 伏見の大仏 |
| 参拝時間 | 要予約 |
| 御朱印 | あり |
| 限定御朱印 | なし |
| 電話番号 | 075-642-2147 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
詳細情報
| ご本尊 | 毘盧遮那仏 |
|---|---|
| 山号 | 清涼山 |
| 宗旨・宗派 | 曹洞宗大本山永平寺末 |
| 開山・開基 | 僧正遍昭 |
| ご由緒 | 欣浄寺の境内は平安時代の初め、桓武天皇から深草少将善宜卿に邸地として賜ったもので、往時は八丁四面の広さであったと伝えられる。深草少将は弘仁3年(813年)3月16日に薨去し、この地に埋葬された。
|
| 体験 | 仏像御朱印札所・七福神巡り |
ホトカミのデータについて
ホトカミには、日本最大となる全国15万8千件の神社お寺の情報や、2万件以上の御朱印のオリジナルデータがあります。
ご利用になりたい法人様やメディア関係の方々は、こちらよりお気軽にご相談ください。
最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。

ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ


































11
0