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つなしきゆきえてんまんぐう(まつおたいしゃけいがいまっしゃ)

綱敷行衛天満宮(松尾大社境外末社)
京都府 丹波口駅

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洛陽天満宮二十五社(綱敷天満宮、行衛天満宮ともに)

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くるくるきよせん
くるくるきよせん
2025年11月09日(日) 19時26分19秒
3010投稿

京都市下京区にある神社です。
京都の町は碁盤の目のように・・・なんて聞くことがありますよね。
確かに洛中だったエリアでは 町の区画がブロックのように長方形になっていることが多いです。
ですが この綱敷行衛天満宮のある地は少し変わっています。
神社のすぐ南から三角州のようになっているのです。それもその幅は8mぐらい。
川があるわけでもないので 区画整理の時に何かがあったのでしょうね。

社殿は南向きに建てられていて 鳥居は南側と西側にありました。
正面・南側から境内に入りました。
本殿は覆屋の中にあります。
保存状態が良いと思うのですが それなりの歴史を感じさせる本殿でした。
こういう色合いが好きです。(昭和初期と予想)
手水舎は覆屋には奉納提灯が多くあり 地域の氏子様だけでなく 会社やお店も奉納されていました。
皆さまで守ろうという願いの表れですね。
境内社で3柱祀られていました。
白太夫大神と末吉大明神と もう一つは不明でした。
覆屋の壁に由緒書が貼られていました。
綱敷行衛天満宮 由緒書
祭神 菅原 道真 公
由緒
網敷天満宮・行衛天満宮 弐社に別れ 共に古来 西七条村に奉斎せられしを 昭和九年合弁をなし現地に鎮座したるものにして 網敷天満宮に関する古記録によれば 付近に高さ数十丈 枝葉四方に繁茂し 山の如く見ゆる榎あり 世人 榎の森と称したり この森の傍らに広大な菖蒲池あり 四季を通じ花絶えざる景勝の地たり。乳母文子七条村より出て仕うを以て道真公には白太夫なる者を随え しばしばこの地に遊び この森を閑静の勝地と称し 別荘を建て 菖蒲池にて御舟遊あり 里人の調進せし網を船網として慰み 或はこの船寄の網を円座としその上に座し 詩歌を詠み給いしが里の童これを真似せしかば さても優しき童なり 其程 我を尊む事なれば我が姿を残し置かむと 網敷の御像を自ら描きて その父子に与えたり。後 冤罪の為 筑前に下らせ給いても 帰洛の勅命なき身の 京洛を思いて先に里人に与えし 画像を形見となし榎の森に祀るべしと 白太夫に命じて文子に告げらる。父子小祠を建てんとせしも 公を憚り 為し得ず討ち過ぎたりしに 或夜夢に「この地に来るとも身を入るべき宿なし。疑はずして我が住居を作るべし」と託宣あり。遂に一字を建立す 榎寺と名づけ広大なる地域を有し 霊験顕著なり。
菅原道眞を祀る旧村社。綱敷天満宮は洛陽天満宮二十五社の一で その由緒を「山州名跡志」は「伝不詳 按ズルニ綱敷トハ菅相公筑紫ニ遷リタマフ時 博多ニ於テ船ヨリ上リ玉ヘルニ 御座無フシテ船ノ綱ヲ敷テ御座トナス 此時一夜ニ於テ白髪ト成玉ヘリ 世人其御相好ヲ図シテ綱敷像トモ 一夜白髪ノ御影トモ云フ也 其神像ヲ安置スル故ナル歟」と記す。
行衛天満宮は靱負天満宮とも記され 名称の由来を「山州名跡志」は「此宮ノ前南北ニ通ル路アリ 是ヲ靱負通ト号ス 仍テ号ルナリ」とする。「北野天神縁起」には 天慶五年(九四二)西京七条に住む「賤女にあや子といひける者」に 北野の馬場に社を建てよという菅原道真の託宣があり しばらく自宅に祀ったが 天慶九年に北野に社殿を移したとあるが その多治比文子の旧宅にちなんだものと社伝はいう。現在は綱敷天満宮に合祀される。

ネット情報です。
もとは綱敷天満宮と行衛天満宮という二つの天満宮。
これが昭和9年(1934年)に合併したものらしい。
現在地は綱敷天満宮があったところで その西に行衛天満宮があったという。
この二つの天満宮の創建は不詳。
綱敷天満宮は 菅原道真が筑紫に左遷され 博多仁上陸した時 船の綱を敷いて御座としたところ 一夜にして白髪となった。
道真のその様を画にし 綱敷天神像とか 一夜白髪の御影と呼び 社名はその神像を祀ったことに由来するという。

綱敷行衛天満宮(松尾大社境外末社)(京都府)

正面 南側

綱敷行衛天満宮(松尾大社境外末社)(京都府)

社号の石柱

綱敷行衛天満宮(松尾大社境外末社)(京都府)

扁額

綱敷行衛天満宮(松尾大社境外末社)(京都府)

手水舎

綱敷行衛天満宮(松尾大社境外末社)(京都府)

本殿

綱敷行衛天満宮(松尾大社境外末社)(京都府)

覆屋の中

綱敷行衛天満宮(松尾大社境外末社)(京都府)

境内社 不明

綱敷行衛天満宮(松尾大社境外末社)(京都府)

境内社 左:白太夫大神 右:末吉大明神

綱敷行衛天満宮(松尾大社境外末社)(京都府)

西側鳥居

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綱敷行衛天満宮(松尾大社境外末社)の基本情報

住所

京都府京都市下京区西七条北東野町4

行き方

七条御前通バス停より徒歩約3分

アクセスを詳しく見る
名称

綱敷行衛天満宮(松尾大社境外末社)

読み方

つなしきゆきえてんまんぐう(まつおたいしゃけいがいまっしゃ)

電話番号075-871-5016(松尾大社)
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。

詳細情報

ご祭神菅原道真公
創建時代

昭和9年

ご由緒

昭和9年の創祀。西七条村に祀られていた綱敷天満宮と行衛天満宮を合祀した。綱敷天満宮は同地に、行衛天満宮は同地の西方に鎮座しており、共に洛陽天満宮二十五社に数えられていた。現在は松尾大社の境外末社の一つであり、本殿は寛政年間の建立されている。

綱敷天満宮
 創祀は不明。西七条村にある森は、高さ数十丈、山の如く見える榎があり、榎の森と称されていた。森の傍らには広大な菖蒲池があり、四季を通じて花が絶えない景勝の地であった。道真の乳母である文子はその西七条村の出身であり、道真も白太夫という従者を従えて遊びに来ていた。
 道真はこの森を「閑静の勝地」と称し、別荘を建てて池で舟遊びをしていた。里人が調達した舟綱を円座にし、その上に座して詩歌を詠んでいたが、里の子どもが真似をしている。道真は自分の姿を残して置こうと網敷の像を自らが描き、その父子に与えた。
 後に道真は筑前に左遷されたが、帰洛の勅命が無く、京洛を思い、父子に与えた網敷の像を榎の森に祀りたいと、白太夫に命じて文子に伝えさせた。文子は小祠を建てようとしたが、道真を憚ってそのままになっていた。ある夜、夢に「ここに来て身を入れる宿がない。疑わず我が住居を作るべし」と託宣があり、一宇を建立して榎寺と名付けた。
 また、『山州名跡志』によれば、道真が筑紫へ左遷される時、博多において舟に乗った時、御座が無かったので舟の綱を敷いて御座とした。この時、一夜にして白髪となり、それを図して「一夜白髪の御影」と云い、その神像を安置したために綱敷天満宮と称した、と記されている。

行衛天満宮
 元々は「靱負天満宮」が正しいとされ、平安京の右京を南北に通る「西靱負小路」に面していたことから名付けられたとされる。西靱負小路は「猪隈通」とも呼ばれ、北野天満宮南門から唐橋を経て吉祥院へ通じる道で、道真も良く通ったとされている。また、道真の乳母文子の旧宅跡地に祀られていたともされている。

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