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ぶっこうじ|真宗佛光寺派本山渋谷山(汁谷山)

佛光寺
京都府 四条(京都市営)駅

9:00〜16:00(受付終了15:00)

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くるくるきよせん
くるくるきよせん
2025年11月22日(土) 19時49分22秒
3004投稿

京都市下京区にあるお寺です。
お参りするのは3度目かな?境内も広く立派なお寺です。
浄土真宗佛光寺派の本山ということで 浄土真宗の各派の本山と似ていると思います。
西本願寺・東本願寺・興正寺 どちらも下京区にある各派の本山ですが 堂宇の配置・お堂の建築様式・山門 どれを見ても本当に良く似ています。
こちら仏光寺は 御影堂も阿弥陀堂もどちらも拝観無料で 拝顔もできます。
この日はバザーがあり まあまあ遅い時間だったのですが 人出は多かったです。

ネット情報です。
山号は渋谷山(汁谷山) 宗旨・宗派は真宗佛光寺派 寺格は本山 ご本尊は阿弥陀如来 創建年は元応2年(1320年) 開山は了源です。
寺伝によると 承元元年(1205年)に承元の法難で越後国に配流されていた親鸞は 赦免された翌年の建暦2年(1212年)に京都に帰ると山城国山科郷に一宇を創建し 順徳天皇より聖徳太子にまつわる「興隆正法」の勅願を賜りって 「興隆正法寺」と名づけた。
これが後の佛光寺で 親鸞はこの寺を弟子の真仏にまかせ その後 阿弥陀仏の本願をひろめるため関東行化に旅立ったとされている。
しかし 親鸞が山科に興正寺を建てたとするには寺伝以外の根拠に乏しく 史実としては 配流先の越後より直接関東方面へ向ったとする説が有力である。
なお 佛光寺の親鸞伝絵のうち古い作品には京都に帰った後に(興正寺を建立せず)伊勢神宮に参詣した後に関東に向かったとするものも存在しており 後述する荒木門徒の間では一旦京都に帰還した後に関東に向かったとする伝承が古くから存在していたとする見方もある。
実際の所は当寺は了源によって創建されたもので 了源が考えた「興正寺」の名称を親鸞の子孫である本願寺覚如に名付け親となってもらって寺名としたようである。

佛光寺(京都府)

御影堂門

佛光寺(京都府)

寺号の石柱

佛光寺(京都府)

キッチンカーが来ていました

佛光寺(京都府)

手水舎

佛光寺(京都府)

鐘楼 見事な造りです

佛光寺(京都府)

大師堂

佛光寺(京都府)
佛光寺(京都府)

内陣

佛光寺(京都府)

大師座像も見られます

佛光寺(京都府)

バザーでした

佛光寺(京都府)

阿弥陀堂

佛光寺(京都府)

内陣

佛光寺(京都府)

阿弥陀様も拝顔できます

佛光寺(京都府)

梁の彫刻が見事です

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佛光寺の基本情報

住所

京都府京都市下京区新開町397

行き方

市営地下鉄市場駅5番出口より徒歩2分
阪急烏丸駅15番出口より徒歩5分

アクセスを詳しく見る
名称

佛光寺

読み方

ぶっこうじ

参拝時間

9:00〜16:00(受付終了15:00)

御朱印あり
限定御朱印なし
電話番号075-341-3321
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttp://www.bukkoji.or.jp/
SNS

詳細情報

ご本尊阿弥陀如来
山号

渋谷山(汁谷山)

院号

華恩院

宗旨・宗派真宗佛光寺派本山
創建時代

興隆正法寺:1212年(建暦2年)、佛光寺:1320年(元応2年)

開山・開基

開山:了源上人、開基:親鸞聖人

文化財

重要文化財
木造聖徳太子立像 - 元応2年(1320年)湛幸作。
紙本着色一流相承系図(佛光寺・長性院共有)
木造阿弥陀如来立像(光薗院蔵)
木造阿弥陀如来立像(大行寺蔵) - 快慶作。

ご由緒

越後流罪に遭われた親鸞聖人は、ご赦免の翌年建暦二年(1212)に京都に帰られ、山科の地に草庵を結ばれました。
この草庵が佛光寺草創と伝えられています。
当初、真宗開闢の根本道場を意味して、「興隆正法寺」と号しました。
親鸞聖人在世の当時、真宗の教えは関東を中心に広がりをみせていましたが、第七世了源上人になって、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都に置き、光明本尊・絵系図・交名帳を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れました。
人々は風になびく草木のごとく上人のお徳を慕って念仏申すようになり、元応二年(1320)には、寺基を山科から今比叡汁谷(現・京都国立博物館あたり)に移しました。

建武二年(1335)十二月八日、上人はご教化の途上、伊賀(三重)の七里峠において賊徒に襲われ、正法流布のご生涯を閉じられたのですが、その死に臨んで自己をあやめんとする者に対して「この者を罪することなかれ、回心の気あり、よく後生を教ゆべし」とお諭しになりました。
時に上人42歳でした。了源上人は、わが国で初めて真宗教団を組織され、念仏不毛の地を耕されたお方で、佛光寺のみならず真宗教団の中興の祖といっても過言ではありません。(「了源上人絵詞」へ)
佛光寺が繁盛するにしたがって、それを妬む輩が現れ、ある夜ご本尊や法宝物を盗み出して竹やぶに投げ捨てました。
その夜、後醍醐天皇が夢枕に東南の方向から一筋の光が差し込むのをご覧になり、ただちに人を遣わせられたところ、阿弥陀如来のお木像が出てきました。この仏像がわがご本山の阿弥陀如来像の台座と一致するところとなり、勅願により「阿弥陀佛光寺」略して佛光寺の寺号を賜ったと伝えられています。
了源上人亡き後、第八世を継職された長子の源鸞上人は在職十三年で病没され、やむなく了源上人のお裏方、了明尼公が第九世の法灯を継がれることになりました。
六百年以上も昔、五障三従(ごしょうさんしょう)の女人と言われた女性差別の激しい南北朝時代に、女性が一山の門主の地位に就くということは、まさに革命的な出来事です。
「本願には老少善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすと知るべし」とのみ教えを具体的な形を通して世に顕正したのです。
以後、佛光寺は性別による差別のない開かれた教団として、多くの女性が教団護持に携わってきました。
特に、第二十七世を継承された真意尼公は、江戸から明治へという時代の激変期にあって、第二十五世真達上人亡き後、元治の兵火で灰燼に帰した本山を背負い、お念仏一筋に法灯を守り抜かれました。
現在の本山両堂をはじめとする諸堂は、真意尼公の手によって再建されたものです。
寺基を洛中東山に移し、後醍醐天皇から寺号を賜った佛光寺は益々隆盛を極めました。しかし、それとともに延暦寺の弾圧が強まり、応仁の乱を境に寺勢は次第に衰え、代わって本願寺が台頭するところとなりました。
天正十四年(1586)には豊臣秀吉の要請により、寺基を五条坊門(現在地)に移しました。
京都の中心部に移転して四百年余り、その間にも多くの法難に見舞われましたが、門末の念仏相続のご懇念によって佛光寺の法灯は守り継がれてきました。

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