せっけいじ
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楽しみ方雪蹊寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2026年06月07日(日) 23時38分37秒
参拝:2026年6月吉日
所在地:高知県高知市長浜857番地3
宗 派:臨済宗妙心寺派
寺 格:
本 尊:薬師如来
建 立:815年(弘仁6年)、1225年(嘉禄元年)両説あり
由緒
寺伝によれば空海(弘法大師)の開基で、創建当初は真言宗に属し、「少林山高福寺」と称したという。鎌倉時代に仏師運慶と長男の湛慶が来山して「慶運寺」と改めたという[1]。
寺に伝わる毘沙門天および両脇侍像は、毘沙門天像の足枘銘から湛慶の真作と判明し、高福寺創建の嘉禄元年(1225年)頃の作と推定されている。ただし、湛慶作の仏像が都から遠く離れた土佐に伝わった経緯は定かでない[2]。
なお、『土佐国編年紀事略』には嘉禄元年(1225年)、右近将監定光なる人物が高福寺を創建したとする。天正16年(1588年)の長浜地検帳には「慶雲寺」とあり、この頃までに慶雲寺と改称していたことが窺える。[3]。
その後、寺運が衰え、廃寺となっていたが、天正年間(1573年 – 1593年)の後期に月峰和尚が住職となり、土佐国の戦国大名長宗我部元親の後援で臨済宗の寺として復興した。慶長4年(1599年)の長宗我部元親の病没後、当寺は長宗我部家の菩提寺となり、元親の法名「雪蹊恕三大禅定門」から「雪蹊寺」と称した[4][1]。
江戸時代初期には「南学発祥の道場」といわれ天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍、野中兼山などの儒学者を生み出した。
明治時代になると廃仏毀釈により明治3年(1870年)廃寺となり、翌年、本堂跡に当寺所蔵の長宗我部元親坐像を神体とした秦神社が建立された。明治12年(1879年)大玄和尚により維新館[5]の跡地に再興、明治44年(1911年)までに寺域を拡張して本格的な復興を遂げた[6][7]。なお、明治12年に再興されるまで納経は、31番竹林寺で「高福寺」の名でされていたという。(Wikipediaより)
宗 派:臨済宗妙心寺派
寺 格:
本 尊:薬師如来
建 立:815年(弘仁6年)、1225年(嘉禄元年)両説あり
由緒
寺伝によれば空海(弘法大師)の開基で、創建当初は真言宗に属し、「少林山高福寺」と称したという。鎌倉時代に仏師運慶と長男の湛慶が来山して「慶運寺」と改めたという[1]。
寺に伝わる毘沙門天および両脇侍像は、毘沙門天像の足枘銘から湛慶の真作と判明し、高福寺創建の嘉禄元年(1225年)頃の作と推定されている。ただし、湛慶作の仏像が都から遠く離れた土佐に伝わった経緯は定かでない[2]。
なお、『土佐国編年紀事略』には嘉禄元年(1225年)、右近将監定光なる人物が高福寺を創建したとする。天正16年(1588年)の長浜地検帳には「慶雲寺」とあり、この頃までに慶雲寺と改称していたことが窺える。[3]。
その後、寺運が衰え、廃寺となっていたが、天正年間(1573年 – 1593年)の後期に月峰和尚が住職となり、土佐国の戦国大名長宗我部元親の後援で臨済宗の寺として復興した。慶長4年(1599年)の長宗我部元親の病没後、当寺は長宗我部家の菩提寺となり、元親の法名「雪蹊恕三大禅定門」から「雪蹊寺」と称した[4][1]。
江戸時代初期には「南学発祥の道場」といわれ天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍、野中兼山などの儒学者を生み出した。
明治時代になると廃仏毀釈により明治3年(1870年)廃寺となり、翌年、本堂跡に当寺所蔵の長宗我部元親坐像を神体とした秦神社が建立された。明治12年(1879年)大玄和尚により維新館[5]の跡地に再興、明治44年(1911年)までに寺域を拡張して本格的な復興を遂げた[6][7]。なお、明治12年に再興されるまで納経は、31番竹林寺で「高福寺」の名でされていたという。(Wikipediaより)
すてき
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2011年東日本大震災を切っ掛けに寺社参拝を始めました。これまで1000余の寺社を参拝させていただき、拝受した御朱印も気付けば1500枚超。日本史にも関心があり、寺社参拝がライフワークの一部にな...もっと読む
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