さすけいなりじんじゃ
佐助稲荷神社のお参りの記録一覧(2ページ目)

【御祭神】
宇迦御魂命
大己貴命
佐田彦命
大宮女命
事代主命
勧進年月は未詳。神社の縁起によると、平治の乱後に伊豆に配流された源頼朝の夢に、稲荷の神霊が老翁の姿で現れ、平家討伐の時節到来を告げて挙兵をうながした。そのため、平家討伐後、「佐介ガ谷隠れ里」の霊地を選び、畠山重忠に命じて社殿を造らせたという。 「佐助(介)」という地名は、「前右兵衛権佐」だった頼朝を助けたためとか、上総介・千葉介・三浦介という3人の介の屋敷があったため「三介ガ谷」と呼ばれていたのが変化したものなどといわれている。 吾妻鏡には当神社の記述がない。
延文4年(1359年)12月11日、鎌倉公方足利基氏は凶徒退治の祈祷を「佐介稲荷社別当三位僧都御房」に命じたという記録が残っている。 応永25年(1418年)2月、関東管領上杉憲実が鶴岡八幡宮の供僧に対して当社の別当職と社領を安堵している。
古くは、鶴岡八幡宮非常時の御旅所で飛地境外末社だったが、明治42年(1909年)に独立した。

ぶらり鎌倉①銭新井弁天の社務所でルートを教えてもらい、境内から最短ルートで向かいました。「一本の道だよ」の言葉を信じ歩いていくと、何か所か分かれ道があり、間違えてしまった。ようやく佐助稲荷の入り口に、以前車で来た時はここまで来て停める場所がなくあきらめた場所である。7月に参拝した京都伏見稲荷を思い出しながら千本鳥居を潜りながら上っていく。銭新井弁天の坂に比べればきつくはない。名前は知っていたが、参拝でお邪魔するのは人生初めて。境内は思っていたほど広くはない。石段を上りきるとすぐに拝殿。「ここまで来たのに、ここでお終いにするのはないわね~」と他の参拝者の声、拝殿左側から奥宮への登拝ルートを更に上る。足元は少し歩きずらいが、さほどの勾配ではないし距離も大したことがない。途中、石祠群が苔むしていて周囲の雑草と一体化している。奥宮での参拝を終え社務所前に降りてきた。(右回りをすれば非常に近い)一通り参拝を済ませ書置きの御朱印を戴きました。帰路、時より吹く東風が冷たく感じ、秋を感じることが出来ました。(この辺りはスマホの電波がつながりにくい)
銭洗弁財天宇賀福神社から向かいました
社号標
由緒書
千本鳥居
上まで行けない方はこちらの遥拝所で
まだまだ続きます
小さな神橋
最後の石段
拝殿前の鳥居
眷属の狐
手水舎 コロナ対策でまだ水は出てません
寛政十一年奉納の手水盤
拝殿
扁額
境内からの千本鳥居
境内社
奥宮への鳥居
奥宮
拝殿の真後ろ
十二面観世音菩薩
霊狐泉

サイトを見ていて気になって行ってみました。近くに佐助カフェもあり、参拝帰りにひと息つくにはとても良いですね。
稲荷神社とあって狐さんの御朱印です。
赤い鳥居がずっと上まで続いてました。サイトの写真とかだと、分かりづらいですが、本当にずっと本殿まで繋がっててビックリしました。
神社の中は狐ワールド全開で凄いです。
近くにある佐助カフェです。
狐の焼き印が入った佐助焼き。
淹れたてのコーヒーでひと息。

鎌倉参拝8か所目は佐助稲荷。たくさんの赤い鳥居がひときわ目立つ寺社です。
限定ご朱印もいただきました。
鳥居だけでなくお稲荷さんもたくさん。購入して自由におけるようでした。
「公式HPより」
社伝によると建久年間、初代鎌倉幕府将軍・源頼朝が畠山重忠に命じて「かくれ里の祠」を探し当て稲荷神社を再建させたと伝えられています。(建久1190~1199)頼朝は若い時、兵衛佐であったので佐殿と言われており、その佐殿を助けた神と言うことで佐助稲荷と言われています。佐助稲荷神社は頼朝が旗揚げの後征夷大将軍までのぼりつめたことから、別名「出世稲荷」と呼ばれ信仰を集めています。
当時、開山良忠上人は佐介ヶ谷に住まわれていました。ある時、子供に虐められていた子狐を助けました。すると夢に親狐が現れ、悪病が流行る事を告げ、子狐を助けたお礼と共に薬種袋を残していったという事です。翌朝枕元に薬の元である種子があり、上人はお告げに従って種子を蒔くと3日の内に成長し、この薬草で多くの人の病を治しあがめられました。これは佐助稲荷のご利益だと考え、以来佐助稲荷に参詣するのが良いと人々に教えました。このことから、佐助稲荷では一対の白狐を供えて願を掛けるようになったのです。
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