天台宗
妙楽寺のお参りの記録一覧
神奈川県 宿河原駅
かわさき紫陽花散歩 1
JR南武線久地駅もしくは登戸駅からコミュニティーバスにておよそ10分。
小高い丘の上にある天台宗寺院で、元々源氏代々の祈願寺だったそうです。
境内には20種1000株の紫陽花が6月下旬から7月中旬にかけて咲きます。
水々しい緑に鮮やかな色を放つコンストラクトは鮮やかとしか言えません。
閻魔堂です。
駐車場に沿って紫陽花が咲いていました。
薬師堂です。
本堂です。
ここから左手に入ると紫陽花の山になります。
墓地へ向かう細い段を上ると紫陽花の回路に見渡せます。
さまざまな紫陽花が群生しています。
庫裏の前。御朱印は書き置きにていただく事ができます。
天台宗妙楽寺は、多摩川を眼下に見下ろす長尾丘陵の一角にあります。
最近の研究によれば、同寺は中世初期に存在し、『吾妻鏡(あづまかがみ)』に登場する源家累代の祈祷所(きとうじょ)であった威光寺(いこうじ)との関連が指摘され、注目をあつめています。
源頼朝は、鎌倉幕府草創期に弟の全成(ぜんじょう)を威光寺院主として派遣し、所領を安堵(あんど)するなど同寺を厚く保護しております。これは、幕府の所在する鎌倉の外郭(がいかく)の境界線として、多摩川とその右岸丘陵の軍事的位置を重視したためと考えられます。
しかし、幕府の滅亡によって、威光寺も次第に衰微したらしく、応永12(1405)年8月の梵鐘鋳造(ぼんしょうちゅうぞう)の勧進(かんじん)に関する記録を最後として、史上から姿を消し現存しません。ただし、この勧進文には「武州立花郡長尾山威光寺」の表記があり、『吾妻鏡』以来長尾の丘陵に存在したことが確認されます。
妙楽寺の土蔵に安置されている木造薬師如来両脇侍像(やくしによらいりょうわきじぞう)(市重要歴史記念物)を修理した際に、日光菩薩像の胎内から天文14(1545)年の紀年と、「武州立花郡太田郷長尾山 威光寺」以下の墨書銘が発見されました。このことにより、16世紀中頃にも威光寺が存在していたこと、同寺のある地域が太田郷といわれていたこと等が判明しました。また、これらの仏像が妙楽寺に客仏として伝世していたことから、威光寺と妙楽寺との間の因果関係が推定されることになりました。
かつて広い寺域を占め、幾つかの坊や付属寺院を擁していたであろう威光寺も、上述のように有力壇越(だんおつ)を失い、かろうじて残された上記仏像も、いつの頃か妙楽寺に移されたものと推定されます。妙楽寺あるいは威光寺の一坊であったのかもしれません。
同寺付近には、別所、堀の内、竹の沢等の中世地名や、五輪塔や板碑が伝世し、渥美(あつみ)製大形甕(かめ)の一部が出土するなど、中世的な色彩を色濃くとどめており、ありし日の威光寺の姿を投影しているかのようにみえます。
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