むりょうじ
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無量寺ではいただけません
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無量寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2022年12月31日(土)
参拝:2022年12月吉日
失礼ながら、横浜市南区蒔田と言えば、今や、「大山ねずの命」という、おかしな新興宗教がかなりの土地を買い占め、幅を利かせている。それは、まるで、奈良県天理市における天理教のようだ。
私は、こういった熱狂的な宗教が怖い。
そんな中にあって、鎌倉時代に創建された、こんな落ち着いた自然豊かな寺院があったことに感激を覚えたのだった。
対応してくださった女性が、色々と親切に歴史を教えてくださった。
源頼朝の側室の子が創建したこと。高野山で修行したから、高野山真言宗の寺院であること。
「鉄縛り」と書いて、「かなしばり」と読むのだが、それは寝ている時の金縛りではなく、泥棒が入った時に、その泥棒が動けなくなった、という事からの金縛りなのだそうだ。
良いお寺に出逢えて感謝であった。
承元3年、貞暁上人の創建によるもので霊像不動明王が祀られている。貞暁は源頼朝の子として鎌倉にうまれたが、故あって幼少より仏門に入り、紀伊の国高野山で修行に専念した。
頼朝の死後、幕府は政権の安定を欠いたが、幕府創業の功臣執権北条時政は貞暁を将軍職として鎌倉に招聘した。貞暁は途上、蒔田の宿場に着いたが、その夜、持仏である不動明王が夢枕に立ち、「汝鎌倉に入るとも、世は既に北条の天下である。旬日のうちに運命の厄に遭わん。宜しくこの難を避け、菩提の道を得られよ」とのお告げを受けた。貞暁は深く時局を洞察して、入府を断念し、時政に告げた。時政は上人の清い信心を讃え、鎌倉法印の称号と禄を以て遇した。この奇縁によって、蒔田の山麓に御堂を建て不動明王を本尊として安置し、南龍山不動院無量寺と号し、貞暁は当山の開祖となった。以来、鎌倉鎮護寺として発展したが、寛永11年の火災で什宝を焼失し、近くは大正12年の関東大震災で堂宇を烏有に帰するなど興廃変遷した。昭和8年十法壇縁の協力を得て、桃山式堂宇の造営を見るに至った。前大戦中の昭和20年5月の横浜大空襲で炎滅するところ、近隣者の救援によって消失を免れた。本尊不動明王は平安末期の代表的な仏像で「鉄縛り不動」(かなしばりふどう)として親しまれている。
私は、こういった熱狂的な宗教が怖い。
そんな中にあって、鎌倉時代に創建された、こんな落ち着いた自然豊かな寺院があったことに感激を覚えたのだった。
対応してくださった女性が、色々と親切に歴史を教えてくださった。
源頼朝の側室の子が創建したこと。高野山で修行したから、高野山真言宗の寺院であること。
「鉄縛り」と書いて、「かなしばり」と読むのだが、それは寝ている時の金縛りではなく、泥棒が入った時に、その泥棒が動けなくなった、という事からの金縛りなのだそうだ。
良いお寺に出逢えて感謝であった。
承元3年、貞暁上人の創建によるもので霊像不動明王が祀られている。貞暁は源頼朝の子として鎌倉にうまれたが、故あって幼少より仏門に入り、紀伊の国高野山で修行に専念した。
頼朝の死後、幕府は政権の安定を欠いたが、幕府創業の功臣執権北条時政は貞暁を将軍職として鎌倉に招聘した。貞暁は途上、蒔田の宿場に着いたが、その夜、持仏である不動明王が夢枕に立ち、「汝鎌倉に入るとも、世は既に北条の天下である。旬日のうちに運命の厄に遭わん。宜しくこの難を避け、菩提の道を得られよ」とのお告げを受けた。貞暁は深く時局を洞察して、入府を断念し、時政に告げた。時政は上人の清い信心を讃え、鎌倉法印の称号と禄を以て遇した。この奇縁によって、蒔田の山麓に御堂を建て不動明王を本尊として安置し、南龍山不動院無量寺と号し、貞暁は当山の開祖となった。以来、鎌倉鎮護寺として発展したが、寛永11年の火災で什宝を焼失し、近くは大正12年の関東大震災で堂宇を烏有に帰するなど興廃変遷した。昭和8年十法壇縁の協力を得て、桃山式堂宇の造営を見るに至った。前大戦中の昭和20年5月の横浜大空襲で炎滅するところ、近隣者の救援によって消失を免れた。本尊不動明王は平安末期の代表的な仏像で「鉄縛り不動」(かなしばりふどう)として親しまれている。
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