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くりはまてんじんじゃ

久里浜天神社のお参りの記録一覧
神奈川県 京急久里浜駅

ヒナメリ
ヒナメリ
2025年08月08日(金) 02時08分37秒
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気づけばもう月末、何かと気ぜわしい一日だったが、晦日の夜遅くに足を運んでみることにした。向かった先は、これまで何度もお世話になっている久里浜天神社。通りにはすでに人の気配もまばらもまばら。境内に誰の姿もなく、まるで社が静かに私の来訪を待っていてくれたかのようだった。

こんな静寂の中に身を置けることは、この忙しい日常の中ではとても貴重な時間だ。ゆっくりと境内を歩き、深く一礼し、心の中であれこれと思いをめぐらせる。少し前までは、こんなふうに一人きりでじっくりと参拝することに特別な意味を見出していなかったが、今ではこの静けさと自分自身を見つめる時間こそが、何よりも大切なのだと感じるようになった。

思えば、この神社にはこれまで幾度となく足を運んでいる。その理由を一言で言えば、「足がまだ動くから」ということになるのだろう。身体が健康であればこそ、こうしてふらりと立ち寄ることもできる。それは確かに正論だ。だが、物事というのは正論だけでは語り尽くせないものでもある。それに加えて、そこには偶然やご縁、あるいは目には見えない力がはたらいているのではないか、と思いたくもなる。

こうして何度も足を運び通い詰めているうちに、御百度参りに近いような回数になっているのではないかとふと思った。百度石に頼ることもなく、気づけば百回分に相当するような参拝を続けていたのかもしれない。

ふと由緒書に目をやり改めて読み直してみた。創建当時のことが記されており、当時は荒れ地だった土地が少しずつ開墾され、新田として生まれ変わり、人々の暮らしもまたゆっくりと変わっていった、そんな時代背景が浮かび上がってくる。人々の願いや希望が、この地に神社を築かせたのだろう。変わりゆく時代の中で、変わらずに祈りの場所であり続けたこの神社には、そうした静かな力が宿っているように思える。

私が初めてこの天神様に参拝してからも、月日が流れた。その間にも、境内や周囲には小さな変化がいくつもあった。かつて拝殿前には、参拝の作法が英語や韓国語など多言語で丁寧に書かれていた案内板が設置されていたはずだが、今では見当たらない。観光客の姿も減ったせいかもしれない。あるいは何らかの要因かは不明。手水舎には以前、木の柄杓が備え付けられていたが、今はそれが撤去され、代わりに手で直接水を受けるスタイルに変わっていた。これはおそらく、新型コロナウイルスの流行以降に施された変更なのだろう。衛生面への配慮が、こうした形で参拝の作法にも影響を与えていることを改めて感じた。

また、神社周辺の町の様子も少しずつ変化している。徒歩圏内には新たに市民病院が建ち、地域の医療体制が以前よりも整えられた印象を受ける。そして、その病院の近くには、近い将来、大型の複合商業施設が誘致される予定との話も耳にした。生活の利便性が高まり競争により消費者への還元を期待する一方で、町の景観や空気感がどう変わっていくのかについて注視していきたい。

さらには、久里浜の暮らしを象徴するような存在であった横須賀線の八幡第一踏切も、近く廃止される予定だという。病院との絡みというのがあるとかないとか。一度遮断機が降りたらなかなか上がらない踏切。緊急車両の立ち往生回避には踏切廃止は有効な手立てだろう。

それでも、そんな時代の移り変わりの中で、久里浜天神社は基本的には何ひとつ変わらない姿でこの町に静かに寄り添い続けている。世代が移り、人々の暮らしが変わっても、祈る心のかたちはそう簡単には変わらない。これから先も久里浜の町を見守る存在として変わらずここに在り続けてほしいと、心から願っている。

久里浜天神社(神奈川県)
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ヒナメリ
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2025年08月08日(金) 00時58分11秒
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久里浜天神社に鎮座する「菅公騎牛像」。その名の通り、菅原道真公が牛にまたがる姿をかたどった銅像である。威厳を湛えつつも、どこか親しみのあるその姿にしばし見入った。もっとも、こうした「騎牛像」はどちらかといえば少数派のようで、これまで各地の天満宮を訪れてきた経験からしても、牛のみが単独で鎮座する「撫で牛」のほうが目にする機会はずっと多い。

本来ならば、せっかくの機会に道真公ご本人の像に触れて、特に頭をそっと撫でて知恵を授かりたいところだったが、高さがあって容易には届かず、残念ながら断念。とはいえ、手が届く範囲で可能な限り丁寧に牛像を撫でさせていただき、感謝の気持ちを胸にその場をあとにした。

ふと顔を上げると、神社のすぐ向かいに広がるのは、日用品から生鮮食品まで何でもそろう大型スーパー。その店先では、当然のように牛肉が陳列され、買い物客たちが手に取っていた。神社で神聖な動物として扱われている牛と、食材として日常の中に存在している牛。この対比に、一瞬不思議な感覚を覚える。

だが、そうした矛盾をあえて矛盾とせず、共存を自然なものとして受け入れるのが神道というものの特徴なのかもしれない。牛は神の使いとして敬われるが、それと同時に、人の暮らしを支える存在でもあるという現実を否定することはない。どちらか一方だけを崇め奉るのではなく、あるがままを受け入れ、折り合いをつけながら共に生きていく。その柔らかさ、しなやかさに、どこか自分の価値観とも重なるものを感じた。

神前で手を合わせ、スーパーの前を通り過ぎる――それらは決して矛盾する行為ではなく、むしろひとつの連続した日常の光景なのだと、そんなふうに思えた。

久里浜天神社(神奈川県)
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