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曹洞宗東光山

曹源寺
神奈川県 衣笠駅

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mitch
2022年03月26日(土)
2164投稿

22.03.23 源頼朝の祈願所、横須賀「曹源寺」 _ 横須賀市公郷町

曹源寺の景色

01-1) 横須賀 曹洞宗「東光山曹源寺」 遠景 _ 横須賀市公郷町
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曹源寺の山門

01-2) 寺号標の石柱と、参道階段。 
山門の近景を撮り忘れたのとを悔やむ。
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曹源寺の本殿

02-1) 本堂方向。
奈良時代に行基が開基と伝えられ ’ 宗元寺(または宗源寺)’ を起源とし、
時代が下り 1192年(建久3年)8月9日
源頼朝が相模国の神社仏閣27ヶ所に
妻 北条政子の御産加持を命じたという祈願所の一つ。
後世に 曹洞宗「曹源寺」として再興。
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曹源寺の建物その他

02-2) 拝殿の扁額 ” 東光山 ” 
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曹源寺の芸術

02-3) 拝殿の上方中央 
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曹源寺の芸術

02-4) 拝殿の上方、左側の木鼻。
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曹源寺の本殿

03) 向かって、本堂を左方から。
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曹源寺の本殿

04) 向かって、本堂を右方から。
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曹源寺の庭園

05) 写真01)の階段を登りきった左方を振り返る。
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曹源寺の末社

06-1) 本堂前から振り返った写真05)の右方、境内社 と 手水舎。
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曹源寺の手水

06-2) 手水舎
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曹源寺の建物その他

07-1) 本堂に向かって左方、鐘楼。
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曹源寺の建物その他

07-2) 鐘楼近景を、写真06)方向。
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曹源寺の像

08) (地下)納骨堂の六地蔵 
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曹源寺の建物その他

09) 向かって本堂左方、開山堂。
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曹源寺の景色

10) 写真01)の左方、スロープ状の参道 
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曹源寺の歴史

11) ” 木造十二将立像 十二躯 ” 解説ボード 

文字起こし: 国指定重要文化財 平成24年(2012年)9月6日指定
木造十二神将立像 十二躯
(もくぞうじゅうにしん しょうりゅうぞう じゅうにく)

十二神将は薬師如来の眷属<けんぞく(使者)>で、
薬師如来の十二の大願を守護する 神である。
昼夜十二の時、四季十二の月、十二の方角の守護神でも あり、
頭上には十二支の動物を頂く。

曹源寺に伝わる十二神将の立像は十二躯すべてが揃い、
いずれも 玉眼をはめた寄木造りで甲冑を着け武器を持っている。
像高は 66.1 ~91.1 cmと大きくはないが、本格的な木取りが行われており、
一瞬 の動作を的確にとらえた姿は迫力と実在感にあふれている。
中でも 巳神将は体部や面部の表現に力強さをたたえ、
写実的な表現ですぐ れた武将像である。

こうした作風とともに戌(いぬ)神将像内に記された
「かのしんはけんき うのころのほとけなり」という
正安二年(1300 年)の修理の際の墨書銘から、
運慶に近い慶派仏師により
建久年間(1190 ~ 1198)の頃 に制作されたものと考えられる。

曹源寺は古くは宗元寺と称し、
創建は七世紀に遡るとされる古刹 で、相模国でも有数の寺院であった。
本像制作当時、
宗元寺の庇護者は三浦義明の次男である三浦義澄と考えられる。
以上から、本像 は優れた木造彫刻であるとともに
鎌倉時代初期における三浦一族の 繁栄や運慶一門の
東国での活動を示す資料として価値が高い。

左から寅像・巳像・未像
平成28年(2016年)3月30日 横須賀市教育委員会
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曹源寺の歴史

12) ” 横須賀風物百選 「曹源寺」 ” 解説ボード 
( 現物も文字が薄くなっていたし写真も役たたずだけど、敢えて載せた。)
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文字起こし: 昭和五十二年市制施行七十周年記念 横須賀風物百選 「曹源寺」
古くは、宗元または宗源の文字を用いていました。
山号を東光山と称し、曹洞宗に属し、行基によって開かれたと伝えられています。

この寺の前身は、奈良時代後期から平安時代初期にわたって建てられました。
寺の地域は、県立横須賀高等学校の用地を含む
一町(約百九メートル)四方の広さであったと言われています。
南大門をくぐり中門を入ると、金堂と三重の塔が相対してそびえ、
講堂が偉容を誇り、
これに連なって回廊があり、東面と北面に僧坊が建っていました。
さらに北門を抜けると高台に薬師堂があるといった法隆寺または法起寺様式の
一大寺院であったろうと考えられています。
南大門の前は衣笠栄町方向から大 津方向にかけて東海道が延び、
身分の高い人々の家や役所が立ち並んでいたであろうと想像されています。

その建造物も、室町時代になって世の中が乱れ ると、
群盗の乱入によって焼失してしまいました。
そのとき、火に遭った金銅の薬師如来像が、
当寺の本尊である薬師の腹中に安置されています。
本尊の薬師は、行基が彫った仏像と伝えられていますが、
現存する白木造り部坐像は、
その脇に控える日光・月光両警薩像とともに慶長年代頃の作品と
推定されています。
したがって、現存の本尊は、
德川の代管長谷川七左第門長が由緒ある当寺の衰えを嘆いて、
もとの薬師堂の跡に寺を再建したと伝えられていますので、
その折に造られたものと考えられます。

当寺再興以後の江戸 時代には、
眼病を治す三浦素師と広くあがめられていました。
現在の寺の様式となったのは、昭和七年以後のことです。
寺内に安置されている十二神将立像は、部分的に傷んでいますが、
十二体そろっていることは珍しく、鎌倉末期の作品で、県指定の有文化財です。
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曹源寺の建物その他

13) 参拝者専用駐車場
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22.03.23C #源頼朝 の祈願所、#横須賀 「 #曹源寺 」 _ #横須賀市公郷町
https://mitch1.blog.ss-blog.jp/2022-03-26-4#more

/ #源頼朝の祈願所 #鎌倉殿の13人

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歴史

< 公式Webサイトから引用 _ 
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古くは、宗元または宗源の文字を用いていました。
東光山と称し、曹洞宗に属し、行基によって開かれたと伝えられています。
この寺の前身は、奈良時代後期から平安時代初期にわたって建てられました。
寺の地域は、県立横須賀高等学校の用地を含む
一町(約109メートル)四方の広さであったと言われています。
南大門をくぐり中門を入ると、金堂と三重の塔が相対してそびえ、
講堂が偉容を誇り、これに連なって回廊があり、東面と北面に僧坊が建っていました。
さらに北門を抜けると高台に薬師堂があるといった
法隆寺または法起寺様式の一大寺院であったろうと考えられています。
南大門の前は衣笠栄町方向から大津方向にかけて古東海道が延び、
身分の高い人々の家や役所が立ち並んでいたであろうと想像されています。
その建造物も、室町時代になって世の中が乱れると、群盗の乱入によって焼失してしまいました。
そのとき、火に遭った金銅造り薬師如来像が、当寺の本尊である薬師の腹中に安置されています。
本尊の薬師は、行基が彫った仏像と伝えられていますが、
現存する白木造り薬師座像は、
その脇に控える日光・月光両菩薩像とともに慶長年代頃の作品と推定されています。
したがって、現存の本尊は、徳川の代官長谷川七左衛門長綱が由緒ある当寺の衰えを嘆いて、
もとの薬師堂の跡に寺を再建したと伝えられていますので、その折に造られたものと考えられます。
当寺再興以後の江戸時代には、眼病を治す三浦薬師と広くあがめられていました。
現在の寺の様式となったのは、昭和七年以後のことです。
寺内に安置されている十二神将立像は、部分的に痛んではいますが、
十二体そろっていることは珍しく、鎌倉末期の作品で、県指定の有形文化財です。

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名称曹源寺
御朱印あり

限定御朱印なし
電話番号046-851-0889
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詳細情報

ご本尊薬師如来
山号東光山
宗旨・宗派曹洞宗
創建時代奈良時代後期あたりと推定
開山・開基開基:行基
文化財

木造十二神将立像 _ 国の重要指定文化財

ご由緒

< 公式Webサイトから引用 _ 
.
古くは、宗元または宗源の文字を用いていました。
東光山と称し、曹洞宗に属し、行基によって開かれたと伝えられています。
この寺の前身は、奈良時代後期から平安時代初期にわたって建てられました。
寺の地域は、県立横須賀高等学校の用地を含む
一町(約109メートル)四方の広さであったと言われています。
南大門をくぐり中門を入ると、金堂と三重の塔が相対してそびえ、
講堂が偉容を誇り、これに連なって回廊があり、東面と北面に僧坊が建っていました。
さらに北門を抜けると高台に薬師堂があるといった
法隆寺または法起寺様式の一大寺院であったろうと考えられています。
南大門の前は衣笠栄町方向から大津方向にかけて古東海道が延び、
身分の高い人々の家や役所が立ち並んでいたであろうと想像されています。
その建造物も、室町時代になって世の中が乱れると、群盗の乱入によって焼失してしまいました。
そのとき、火に遭った金銅造り薬師如来像が、当寺の本尊である薬師の腹中に安置されています。
本尊の薬師は、行基が彫った仏像と伝えられていますが、
現存する白木造り薬師座像は、
その脇に控える日光・月光両菩薩像とともに慶長年代頃の作品と推定されています。
したがって、現存の本尊は、徳川の代官長谷川七左衛門長綱が由緒ある当寺の衰えを嘆いて、
もとの薬師堂の跡に寺を再建したと伝えられていますので、その折に造られたものと考えられます。
当寺再興以後の江戸時代には、眼病を治す三浦薬師と広くあがめられていました。
現在の寺の様式となったのは、昭和七年以後のことです。
寺内に安置されている十二神将立像は、部分的に痛んではいますが、
十二体そろっていることは珍しく、鎌倉末期の作品で、県指定の有形文化財です。

体験仏像御朱印重要文化財

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