もとやまじ|高野山真言宗|七宝山(しっぽうざん)
本山寺のお参りの記録一覧
3回目の1泊2日四国八十八か所巡り 2日目の4寺院目です。
駐車場からすぐの門は仁王門で 重要文化財に指定されています。
門をくぐらなくても境内に入れちゃいますが 入ると広い境内です。
南東側には大門が別にありますが こちらは大草鞋が置かれていました。
こちら本山寺は建物が多いです。
どちらも本堂と大師堂は必ずあるのですが それ以外に五重塔・赤堂・鎮守堂・十王堂・お砂ふれ道場・慰霊堂・薬師堂・鐘楼・客殿・庫裏・阿弥陀堂とあります。
本堂など古い建物は 復元工事はされていますが 鎌倉時代の建物だそうです。
古い建物が今に残っているのは 本当に素晴らしいです。
有力者に守られたというのもあるでしょうが 民の力が大きいはずです。
五重塔については 耐震工事がなされ 24時間体制で東京大学地震観測所でモニタリングされているそうです。
未来に残そうという人々の願いが 今までも これからも続いていくことは素晴らしいと思いました。
山号は七宝山 院号は持宝院 宗旨宗派は高野山真言宗 ご本尊は馬頭観音菩薩 創建年は(伝)大同2年(807年) 開基は(伝)空海(弘法大師)です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん あみりと どはんば うん はった そわか
ご詠歌:本山(もとやま)に誰か植江(うえ)ける花なれや 春こそたをれたむけにぞなる
でした。
由緒については
寺伝によれば 大同2年(807年) 平城天皇の勅願寺として 空海が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊 阿弥陀如来と薬師如来を脇侍として開創し長福寺と称したという。
この時 本堂はわずか一夜でできたという「一夜建立」の伝説がある。
中世には寺領2,000石、24坊を持つ大寺となって栄えた。
永安から天正年間(1573年 – 1593年)の戦乱により讃岐国の主要寺院の大半は兵火を受けたが 当寺は香川氏の勢力下にあり 早くに長宗我部と婚姻同盟しており「不戦協定」が結ばれていて 焼かれた跡は見つかっていない。
伝承ではこの境内に攻め入る兵士を斬られながらも止めようとする住職を振りきり攻め入ったが 本堂内陣の厨子を開いたところ阿弥陀如来の体から血がしたたり落ちるのを見て驚き 本堂(国宝)と仁王門(重要文化財)は焼かずに撤退したという。
その阿弥陀如来は「太刀受けの弥陀」と呼ばれるとある。
澄禅『四国遍路日記』(1653年)や真念『四国辺路道指南』(1687年)には 本堂と仁王門と鐘楼しか記されていないが 『四国遍礼名所図会』(1800年)には 大師堂(1795年建立)・十王堂(1759年建立)・大日堂・鎮守堂・庚申堂(1730年建立)が描かれ 1700年台に五重塔以外は現在とほぼ同じ伽藍が造られた。
江戸時代には領主の生駒氏と京極氏により再興され 天保年間(1830 – 1844年)には地名から本山寺と改称された。
とありました。
仁王門
石柱
大門
鐘楼
大師堂
扁額 今までとは違う
本堂
内陣
本堂の説明
修行大師像
赤堂(赤殿)
本坊
五重塔
五重塔の揺れを観測しているそうです
十王堂
内陣
手水舎
お砂ふれ道場
阿弥陀堂
鎮守堂
一畑薬師堂
本山寺 お遍路 四国八十八霊場(逆打ち)
本山寺 お遍路 四国八十八霊場(逆打ち)
本山寺 お遍路 四国八十八霊場(逆打ち)
本山寺 お遍路 四国八十八霊場(逆打ち)
本山寺 五重塔
お遍路 四国八十八霊場(逆打ち)
本山寺 お遍路 四国八十八霊場(逆打ち)
四国霊場の五重塔 4基あります。
31番竹林寺 31m 70番本山寺 31.5m
75番善通寺 45m 86番志度寺 33m
四国八十八ヶ所霊場 第70番札所
山号:七宝山
宗派:高野山真言宗
御本尊:馬頭観世音菩薩
開基:弘法大師
御本尊の馬頭観世音菩薩さま。四国霊場では、ここ本山寺さんだけ。
御真言は、
"オン・アミリトドバン・ウン・バッタ・ソワカ"
勝負事にご縁が深い仏さまです。観音さまの中では唯一"忿怒相"。煩悩を馬のごとく、ムシャムシャ食い尽くしてくれます。
ご本堂
国宝 一重寄棟造り 本瓦葺の風格あふれる建物です。1300年(正安2年)建立 奈良風の造り
大師堂
五重塔
今でも、"高い!"と思いますが、当時の人々の感動が推し量られます。😯
いただいた御朱印です。
【七宝山(しっぽうざん)持宝院(じほういん)本山寺(もとやまじ)】
本尊:馬頭観世音菩薩
宗派:高野山真言宗
開基:弘法大師
本山寺は、807(大同2)年、第51代 平城(へいぜい)天皇(在位806-809)の勅願寺として、弘法大師(774-835)が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊、阿弥陀如来と薬師如来を脇侍として開創したのがはじまりとされる。当時は、「長福寺」という名で、本堂は大師が一夜ほどの短期間で建立したという伝説が残る。
天正年間(1573-1592)長宗我部元親(もとちか)の軍勢に攻められた際、住職が兵士たちの侵入を阻止しようとした。しかし、兵士たちは住職を切りつけ本堂へと入った瞬間、目の前に阿弥陀如来が現れ、その姿は肩から胸にかけて血を流していた。その姿を見た兵士たちは、恐れ退いて退散し、寺は戦火を免れたという。その阿弥陀如来は、「太刀受けの弥陀(みだ)」と呼ばれる。その後、江戸時代には領主の生駒氏と京極氏により再興され、天保年間(1830-1844)に「本山寺」と改称された。
【70_T.Hamada's view】
五重塔。明治時代建立。
【70_馬頭観世音菩薩】
本尊は頭上に馬頭をいただく「馬頭観世音菩薩」。馬が草を食べるように人間の欲や怒り、悩みを食べつくすようにとの願いが込められている。境内には実物大の馬の像が立てられている。(四国霊場開創1200年記念絵はがき)
【70_馬の像】
本尊は、四国霊場唯一の馬頭観世音。
【70_本堂】
一重寄棟造り、本瓦葺きの風格あふれる建物。鎌倉時代、1300(正安2)年建立の奈良風の造り。国宝。
【70_大師堂】
【70_仁王門】
和様、唐様、天竺様という3つの様式の山門。国指定重要文化財。
【70_仁王阿形像】
【70_仁王吽形像】
【70_龍の手水舎】
【70_十王堂】
【70_四国36不動霊場】
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