もうつうじ|天台宗
毛越寺のお参りの記録一覧(2ページ目)
岩手県西磐井郡平泉町に境内を構える、毛越寺、どの様な寺院か引用を用いて調べて見ました、山号は医王山、宗旨、宗派は天台宗、寺格は別格本山、ご本尊は薬師如来、創建年(伝)嘉祥3年(850年)開基(伝)円仁(慈覚大師)奥州三十三観音霊場 番外札所、芭蕉、円仁ゆかりの寺四寺で貰う事の出来る、四寺廻廊札所、東日本大震災慰霊。みちのく巡礼、協力寺院、四寺廻廊と言う、御朱印帳、御朱印を貰う事が出来る寺です。世界遺産だけ有ります、四季の景色も美しく、定期的に訪れるべき寺ですね、心も身体が軽くなります、寺伝によると嘉祥3(850)慈覚大師が東北巡遊のおり、この地にさしかかると、一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなりました。ふと足元を見ると、地面に点々と白鹿の毛が落ちておりました。大師は不思議に思いその毛をたどると、前方に白鹿がうずくまっておりました。大師が近づくと、白鹿は姿をかき消し、やがてどこからともなく、一人の白髪の老人が現われ、この地に堂宇を建立して霊場にせよと告げました。大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し、嘉祥寺と号しました。これが毛越寺の起こりとされます。藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。平成元年、平安様式の新本堂が建立されました、歴史的建造物、仏閣、神社巡り、日本庭園、紅葉、絶景、景色撮影、癒し処、散策、参拝、奥州三十三観音霊場巡り、みちのく巡礼巡り、四寺廻廊結願巡り、世界遺産観光、御朱印集め等好きな方訪れて見て下さい。
四寺廻廊、御朱印帳
四寺廻廊、御朱印
四寺結願、
龍の様な雲が見えました。
冥土の土産という言葉が当てはまる、言葉では表せない美しさでした。目で見る景色と写真とでは全く印象が違うと思うくらいに感動しました。あんなにゆったりとした時間を過ごすことができる場所を他に知りません。この感動を持ち帰りたく切り絵の御朱印も一緒にいただきました🍁
妻との思い出の地で妻に持って行く土産話を手に入れたような、このために御朱印巡りしてたような気持ちになりました。
写真ではお伝えできないのが残念です。
「特別史跡」・「特別名勝」と、その文化価値を国から二重に指定されている毛越寺。境内には平安時代の堂塔伽藍を偲ばせる、礎石等の遺構が多数残っています。また、大泉が池を中心とした庭園も、平安時代の優美な作庭造園の形状を如実にとどめており、日本庭園史上にも特に貴重な遺構として、発掘調査が行われ、旧観に復されています。
初めて参拝しました。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送と昨年未の平泉観光をきっかけに中世武士の誕生に興味をもちました。
東北に生きる者として、奥州藤原4代の歴史を学びに再び平泉へ旅行。
毛越寺は世界遺産の一つになっていますが、そのほとんどが消失してしまっているのが非常に残念ではあります。
しかし、残された庭園と南大門や本堂の柱跡からその想像は大きく膨らませます。
参拝した日は、受付所前のガイド案内に短時間ガイド(20分・500円)を頼み、ざっと毛越寺のことを学びました。
一番驚いたのは、庭園にある水は創建時は、山からの湧き水を流していたこと。さらに、その湧き水の存在が昭和50年代の発掘調査まで知られていなかった事実。
そして「曲水」と呼ばれる川に模したその湧き水側で和歌を読む「曲水の宴」が今も催されていること。コロナのためここ最近は中止となっており、5月の最終日曜日に毎年やっていたようなので、いつかは見に行ってみたいと思いました。
【NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』~源義経ゆかりの名所②】
5月22日(日)放送分で源義経の最期が描かれていたため、そのゆかりの古刹をご紹介します。
【陸奥国 古刹巡り】
毛越寺(もうつうじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の別格本山の寺院。本尊は薬師如来。境内は「毛越寺境内 附鎮守社跡」として国の特別史跡、庭園は「毛越寺庭園」として国指定の特別名勝。「毛越寺の延年」は国指定の重要無形民俗文化財。2011年にユネスコの世界遺産に登録されている。
寺伝によると、平安時代初期の850年、中尊寺と同年に円仁(慈覚大師)が創建。その後大火で焼失し荒廃したが、奥州藤原氏2代基衡夫妻、3代秀衡が壮大な伽藍を再興した。『吾妻鏡』によると、「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」と記され、円隆寺と号せられる金堂・講堂・常行堂・二階惣門・鐘楼・経蔵があり、嘉祥寺その他堂宇もあって、当時は中尊寺をしのぐ規模だったとされる。金堂の円隆寺は、金銀、紫檀をちりばめ、その荘厳さは『吾妻鏡』では「吾朝無双」と評された。
鎌倉時代には鎌倉幕府にも保護されたが、1226年火災に遭い、戦国時代の1573年には兵火に遭って伽藍をすべて焼失。江戸時代には仙台藩領内となり、1636年には本尊の釈迦三尊は伊達政宗の菩提寺・瑞鳳寺(宮城県仙台市)に遷された。明治時代になると、新しい本堂、庫裏を南大門の外側に建て、伊達一関藩の一関城の大手門を移し山門とするなど、徐々に復興した。大正時代には国の史跡に指定、昭和戦後になって境内遺跡の発掘調査を実施、1989年には平安様式に則って本堂を再建し現在に至っている。
当寺は、JR東北本線・平泉駅の西方700mの平地にある。境内はかなり広くて、中央部に大きな浄土庭園の池があり、その周辺にいくつかの建物と建物跡地がある。明治時代以降に復興しているので、平泉藤原三代の時代から続く建物はない。庭園や伽藍の跡地を見ながら、歴史ロマンに思いを馳せる楽しみ方が必要。参観エリアは樹木も少なくて明るく、様々な植物が植えられている。反時計回りに1周する参観コースは、そこそこじっくり見て廻ると30分はかかる。今回は桜の季節に参拝してみたが桜は少ないみたい。秋の紅葉の写真を見ると相当綺麗なので、ベストシーズンは秋かと思われる。
今回は、ユネスコの世界遺産の構成資産であることから参拝することに。参拝時は休日の昼ごろで、混んではいなかったが、絶えず参拝者が訪れている感じだった。
境内東端南寄り入口にある<山門>。1921年に伊達一関城の大手門を移築したもの。
山門をくぐって正面を見ると、遠くに大きな堂宇が見える。
山門をくぐって、すぐ参道右側にある<授与所>。御朱印はこちら。
参道進んで左側にある<水屋>。
参道進んで左側にある<芭蕉句碑>。
参道進んで左側にある満開の枝垂れ桜の木。当寺の大きな桜はこれ1本だけみたい。
正面を望むと松の木の向こう側に<本堂>。毛越寺一山十八坊の本坊。
<本堂>全景。平安様式で再建。薬師如来立像(平安時代後期作)と脇侍の日光菩薩・月光菩薩を祀る。
本堂に向かって左側の建物。能楽堂かな。
本堂に向かって右側を向くと、浄土庭園の中心<大泉が池>。
順路通り西に進むと<築山>がある。水面から4mの高さに築かれている。
順路の西端にある<開山堂>。
<開山堂>正面。慈覚大師円仁を祀る。
開山堂の前には<菖蒲>?が植えてある。
参拝路は東向きに変わる。こちらは<嘉祥寺跡>。2代基衡が造り始め、3代秀衡が完成させた御堂。本尊は薬師如来であったとのこと。
続いて<講堂跡>。仏法を説き仏法を聴く堂舎であり、本尊は胎金両部大日如来であったとのこと。
参拝路から振り返って<開山堂>を望む。空きスペースは芝生が植えてあって、見た目も気持ちが良い。(o^―^o)
つづいて<金堂円隆寺跡>。基衡建立の勅願寺。『吾妻鏡』では「吾朝無双」と称されるほど万宝を尽くした建物で、本尊は運慶作の薬師如来、毛越寺の中心的堂宇であったとのこと。1226年の火災で焼失。
池に出っ張った部分にある<鐘楼跡>。
江戸時代中期1732年に伊達吉村が再建した<常行堂>。
<常行堂>の本尊は阿弥陀如来。奥殿に秘仏の摩多羅神(またらじん)を祀っている。毎年正月20日に、国指定の重要無形民俗文化財である「延年の舞」が奉納されるとのこと。
常行堂前の<地蔵菩薩>。
つづいて<鐘楼堂>。
現在の梵鐘は、1975年人間国宝・香取正彦氏の作。
境内東端北側にある<法華堂跡>。
法華堂跡の南側にある<常行堂跡>。
南西方向の本堂を望む。池に浮かぶ船も、当時の物を再現しているのかな。
つづいて<東門跡>。往時は築地塀が境内の東端、南端を囲んでいたとのこと。
大泉ヶ池の東端は、池の縁が海の三日月湾の浜辺のようになっていて<洲浜>というみたい。
参拝路を進むにつれ、見える池の形がどんどん変わって行く。スゴイ。(o^―^o)
池の左寄りに見えるのは<出島石組>と<池中立石>。
ここで参拝路は山門付近まで戻る。授与所で御朱印をお願いするが、時間がそこそこかかりそうに見えたので、山門そばの<お休み処・松風庵>に入ることに。
「白玉ぜんざい」か「わらびもち」を頼むつもりだったが、お腹が空いて結局「もりそば」を注文。(^_^;)
食後の腹ごなしに<毛越寺宝物館>を参観。
締めくくりは見納めに、きれいな満開の桜と本堂。
最後に、境内入口全景。なかなか見応えのある良いお寺。
(^▽^)/
12年ぶりの参拝でしたが中尊寺で時間使い過ぎて閉園ギリギリで入れましたが、ゆっくり散策出来ず残念でした。
またゆっくり訪れてみたいと思います
奥州藤原氏2代の藤原基衡(ふじわらのもとひら)により再建され、3代・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の時代には堂塔40、僧坊500を越える大寺院となり隆盛を極めました。
毛越寺(金堂円隆寺)が建てられたのは、藤原基衡の治世の久寿2年(1155年)頃。
平家が栄華を極めた平安時代の後期、奥州藤原氏が館を置いた平泉は、平安京に次ぐ人口を誇り、仏教文化が花開く大都市になっていたのです。
平家が没し、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以降も、東大寺の再建に使う鍍金も、源頼朝が奉じた1000両に対して、5000両を供するなど朝廷との直接的な関係を維持し、幕府と対立しますが、毛越寺、中尊寺は鎌倉幕府とも良好な関係を続けています。
その証拠として、文治5年(1189年)には、源義経を匿(かくま)ったために幕府軍の攻撃を受け、奥州藤原氏は滅亡しますが、鎌倉幕府は、正応元年(1288年)に中尊寺金色堂に覆堂を付け、嘉元2年(1304年)には中尊寺経蔵を修理しています。
そんな毛越寺ですが嘉禄2年(1226年)の火災で円隆寺金堂焼失、さらに天正元年(1573年)、葛西氏と大崎氏の兵火で南大門、観自在王院を焼失(2つの阿弥陀堂がありましたが、舞鶴が池のみ現存)、現在は18坊を残すのみとなっています。
江戸時代初期の寛文5年(1665年)には、徳川幕府と天台宗との強い結びつきから、中尊寺とともに上野東叡山寛永寺の末寺となっています。
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