ほうおんじ|曹洞宗
報恩寺のお参りの記録一覧
1394年南部家13代・南部守行が陸奥国三戸に創建したと伝わる。
1601年南部家27代初代盛岡藩主・南部利直が現在地に移した。
境内にある羅漢堂に並ぶ像は圧巻。第百番善注尊者はマルコポーロ像、第百一番宝蔵永劫尊者像はフビライ像と呼ばれる。
本堂
本堂
山門
山門
山門
中門
鐘楼
鐘楼
書院・衆寮
鋳金原型堂
梵鐘
羅漢堂
羅漢堂
第百番善注尊者(マルコポーロ像)・第百一番宝蔵永劫尊者像(フビライ像)
瑞鳩峰山報恩寺は岩手県盛岡市名須川町に境内を構える曹洞宗の寺院です。報恩寺の創建は応永元年(1394)に現在の青森県三戸町に南部家13代南部守行が父親を含む先祖の菩提を弔い、一族の参禅道場の必要性から開基となり、通山長徹を招いて開山したと云われています。
寺号は中国南宋の高宗が父徽宗の菩提を弔う為に各地に設けた「報恩光孝禅寺」に由来するもので「報恩寺」が掲げられました。その後、一端廃れますが24代南部晴政の代に再興され南部家より200石の寺領を与えられました。
慶長6年(1601)には南部氏の本拠を盛岡城に移した為、報恩寺も城下町の縄張りに組み込まれる形で三戸から移り、南部領内208カ寺の総領(僧録所)となり、大光山聖寿禅寺、大宝山東禅寺、宝珠盛岡山永福寺、雍護山教浄寺と共に盛岡五山の一つに数えられました。
戊辰戦争の際には奥羽越列藩同盟に参加した盛岡藩は新政府軍に与した久保田藩(藩庁:久保田城)に侵攻し敗退した事から、その責任を取って報恩寺の本堂で盛岡藩家老楢山佐渡が切腹、刎首されています。
報恩寺羅漢堂は享保20年(1735)に建てられたもので、土蔵平屋建、宝形造、瓦葺(元々は檜皮葺)、江戸時代中期の御堂建築の遺構として貴重な事から昭和45年(1970)に盛岡市指定文化財(建造物)に指定されています。
土蔵にしてはかなり大型な建物で、外壁は白漆喰仕上げ、腰廻りは「なまこ壁」、外壁上部は鏝で波を表し、正面窓は6角形の形をしているなど意匠的にも凝っています。
内部に安置されてる五百羅漢像(附:軒札4枚)は報恩寺第17世曇樹和尚が大願主となり享保16年(1731)から享保19年(1734)、京都の仏師が9人掛かりで4年間費やしたと云われる貴重なもので、昭和41年(1966)に盛岡市指定文化財(彫刻)に指定されています。その他にも梵鐘と蓮華八角柱餓死供養塔が盛岡市指定文化財に指定されています。
報恩寺本堂は嘉永4年(1851)に改築したもので、木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、正面1間入母屋向拝付き、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、内部に安置されている本尊である釈迦文殊普賢の三尊は大和(奈良県)中善寺の本尊を譲り受けたもので聖徳太子が彫ったものと伝えられています。
報恩寺山門(楼門)は昭和53年(1978)に建てられた三間一戸、入母屋、桟瓦葺、八脚楼門で、2階の楼閣には花頭窓、高欄が設けられ十一面観音や秋葉三尺坊、倶利伽羅不動が安置されています。中門は盛岡城の城門だったとされ、明治時代に入り盛岡城が廃城になると払い下げが行われ報恩寺の山門として移築されたものと伝えられています。
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