きゅうがくじ|曹洞宗|河上山
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久学寺の御朱印・御朱印帳
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御朱印帳 | - | ||
電話番号 | 0790-44-1405 |
その他の巡礼の情報
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曹洞宗 河上山 久学寺
加西西国三十三ヶ所霊場 第五番札所
御本尊 千手観世音菩薩
創立 1446年
御詠歌
はるばると のぼればここに きうがくじ ほとけのちかい ふかきかわかみ
加西市北部に位置する久学寺です。
なんとなくこちらの寺号に惹かれて前々から興味は持っていたのですが、今回ようやくお参りする機会を得ることができました。
こちらは赤穂義士ゆかりのお寺で、赤穂藩三がく寺(赤穂の花岳寺、東京の泉岳寺、加西の久学寺)の一つです。
大石内蔵助がよくこちらで宿泊されていたといい、江戸城で刃傷事件が起こった際、大石内蔵助はこちらで住職と碁を打っていたところ、江戸から早籠が到着し報告を受けて、慌てて赤穂へ戻ったそうです。
ネットで久学寺の情報を調べていると仁王門の写真が出てくるのですが、今回のお参りで仁王門は見つからず。
ネットの写真をよく見ると本堂前のようなので、仁王門はつい最近撤去されたのかもしれません。
<久学寺の歴史>~お寺でいただいた案内書きより~
1606年常陸の国(茨城県)真壁5万石を隠居料として与えられた浅野長政公は真壁藩城主となり、その後を嗣いだ長重公が(茨城県)笠間の城主となる。
長重公の死後、正保元年(1644年)大阪加番を命じられた長直公は翌年6月同じ石高をもって播州赤穂への国替となった。 これが赤穂浅野家の初代である。
赤穂城主となった長直公は赤穂藩53000石の領地を見聞され、特に飛地で石高の多い旧加西群の北部(現加西市)8920石の領地を熱心に見聞された。
そしてその途中、ここ久学寺にて宿泊され、当時の住職(6世是天良扶和尚)に深く帰依され山林田畑12石を寄付され、浅野家の菩提寺として父、長重公と浅野家代々の弔祭を依頼される。
その後、長直公は父、長重公の戒名(華嶽院殿)から命名した現花岳寺を再建され中興開山として久学6世と7世住職をも招請し浅野家の弔祭を依頼される。
やがて、長直公も隠居されその子、長友が後を嗣がれたが僅か5年足らずで若死されたのでその長子である長矩が9歳で赤穂5万石の家督を嗣ぎ祖父の官名(内匠頭)を賜った。
その後、赤穂藩では旧加西群大和村(現多可郡八千代町)に灌漑用のダム建設に着手、その工事の進行を城代家老である大内内蔵助が再三訪れ久学寺に宿泊し当時の住職と囲碁を楽しんでおられた様である。
江戸城での刃傷事件の時、江戸から早籠が赤穂に到着した時も大内内蔵助は久学寺で碁を打っており、赤穂よりの使者から刃傷事件を聞き慌てて赤穂に帰られたと云う言い伝えが有ります。
又、菩提寺という関係から浅野内匠頭長矩公及び46士の戒名は久学9世住職海音和尚が贈ったという記録が現在保存されている。 尚、大内内蔵助の手紙(花岳寺の維持、浅野家の弔祭依頼)と吉田忠左衛門、大高源五の手紙(先祖供養の依頼)も保存している。
苔の参道が続きます
参道脇には石仏がちょこんと見守っています
山門
山門を越えてもまだ苔の参道が続きます
ようやく本堂が見えてきました。
この右手に駐車場があります。
この石灯籠のすぐ奥に仁王門があったのだと思います
本堂
本堂は自由にお参りすることができます
本堂前にある自販機には飲み物と一緒に数珠が販売されていました
境内のすぐ脇には「大石内蔵助ゆかりの古道」があります
久学寺の御朱印・御朱印帳の写真一覧(3枚)
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