いざなみじんじゃ
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御朱印 | |||
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限定 | - | ||
御朱印帳 | - | ありません | |
駐車場 | 鳥居前に無料駐車場あり |
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明石漁港あたりをぶらぶらし 岩屋神社さんからの流れでお参りしました。
住宅街の中にありますが 朱塗りの壁が目を引きます。
ご祭神は伊弉冊大神(いざなみおおかみ)です。
相殿には伊弉諾大神(いざなぎおおかみ)も祀られています。
伊弉冊と伊弉諾は共に祀られていることが多いのですが 伊弉冊神社と片方だけの名称の神社は初めてお参りしました。
境内はとても静かで 落ち着いてお参りできます。
社務所ではとても丁寧に応対いただき 御朱印も拝受できました。
由緒については
社伝によれば 崇神天皇六年九月十日に勧請されたと伝えられています。
宝亀二年(771年)には四町四方(約18.7ha)が赦免地となり 別所氏が三木城主となった際には五十石の社領が寄進され 広大な境内を有していたと伝えられます。
かつての境内は東西に連なる松林だったといい「さなぎの森」と呼ばれていました。
今でも当社は「佐奈岐神社」とも呼ばれています。
一方 江戸時代の地誌『播磨鑑』によれば当社は「岩屋神社」(材木町に鎮座)の御旅所だったといい 両社に深い関係があったことが窺えます。
当社は社名に示す通り「伊弉册大神」を御祭神としており 「岩屋神社」と同様 或いは淡路島から勧請されたのかもしれません。
また 式内社「伊和都比賣神社」および式内社「彌賀多多神社」を当社に比定する説があるものの その根拠ははっきりしません。
当社は嘉吉年間(1441年~1444年)の赤松氏の和坂の戦い 天文年間(1532年~1555年)の放火 天正六年~八年(1578年~1580年)の羽柴秀吉による三木合戦 さらには昭和二十年(1945年)の明石空襲と度重なる焼失を経験しています。
そのため幾度も社殿や記録等が失われたものの その度に再建が行われ 現在もなお明石において広く崇敬を集めています。
とありました。
由緒書
手水
拝殿・本殿
拝殿・本殿
石標
三宝荒神社入り口
福徳三宝荒神社
末社
末社
朱塗りの壁は道沿いにあり目立ちます
伊弉冊神社(いざなみ神社)
~淡路島と瀬戸内明石浦~
主祭神 伊弉册大神
配祀神 素盞嗚大神
屋船豊受大神(ヤフネトヨウケノ大神)
猿田彦大神
福福三宝荒神
(火結大神 ホムスビノオオカミ)
祭記事 左義長(とんど祭)
1月15日に近い日曜日
午前8時頃
明石浦漁協の組合員の奉仕による
近在にない大規模な行事である。
年の始め勇壮な「勢」を得る。
見学者多し。
10月第2土曜日・日曜日
例大祭 神輿海上渡御・神幸式
別称 佐奈岐神社
「 さなぎさん 」
御由緒
延喜式神名帳に云う明石郡九座の一つ伊和都比売神社にて、人皇10代崇神天皇御宇6年勧請せられた式内社である。 人皇49代光仁天皇御宇宝亀2年(771)、境内地四丁四方赦免地となる。 別所氏三木城主たる時崇敬厚く、社領五十石を寄進し、祭典営繕に当ったと云われる。 天正年間(1573~1591)減地となるも、東城に小祠を建て御旅所と名づく(元の祇園さん)西城にも小祠を建て(賀神社)旧境内東西の境界の遺跡とする。 嘉吉年間(1441~1443)赤松氏の和阪ノ戦、天文年中(1532~1554)町野入道の放火、天文年間羽柴氏三木城攻め等のしばしの兵火に罹り、社殿・旧記をことごとく焼失する。 松の巨木(名残の初代の三本松)の生い茂るサナギの森と云われた。 明治12年(1879)、県社に列せられる。 昭和20年(1945)、太平洋戦争の戦災にて社殿、社務所一切の建物を焼失。 昭和37年(1962)、社殿再建。 当社は物を生産する神、特に女神の信仰篤く、古くより根強い信仰を集めている。
羽柴氏が三木城を攻めた時の兵火で、社殿も旧記もことごとく焼失したそうです。
その後も太平洋戦争の戦災でも社殿すべて焼失、昭和37年に再建した後は、阪神淡路大震災で被害を受けました。
社殿を失う度に明石浦漁港(現在は立派な漁港ですが、昔は小規模だったそうです)の人々が、再建費用を工面して建て直されてきました。
言い伝えによると、淡路海人部の斎奉った祭神を主神として、瀬戸内海に点在する加茂系の神人が、神社の創建に関わったと言われています。
三木城主や、明石城主の松平氏も寄進するなど、崇敬を受けてきました。 戦前、秋の祭典では神輿を明石川に浸し練り歩く、漁村の若者たちの勇壮な神輿神事があったそうです。
岩屋神社から西へ5分ほどの海岸沿にあり、
善楽寺の南(海側)になります。
明石市岬町19―8
御本殿
明石浦漁港夕景
明石浦漁港から見た淡路島
おまけです⚓
ピポポパパ (旧ムーミンパパ)
海の見えるCAFÉ restaurant
水族館🐬トイレ(女性専用)
須磨で信号待ちに📷️
伊弉冊神社御由緒パンフ
今年の2月頃にも参拝させていただきましたが、久しぶりに明石の南をぶらぶらしてすぐそばまで来ているのにお参りしないわけにはいきません。
前回の投稿ではあまり詳しいことを掲載していなかったため、今回はもう少し詳しく紹介させていただければと思います。
延喜式神名帳の播磨国明石郡九座の一つである「伊和都比売神社」ですが、現在旧明石群内には「伊和都比売神社」はなく、論社(候補となる神社)として、稲爪神社、岩屋神社、そしてこの伊弉冊神社があげられています。
御由緒には下記のとおり記載されています。
当社は延喜式神名帳に云う明石郡九座の一つ伊和都比売神社にて人皇十代崇神天皇御 宇六年九月十日勧請せられた式内社であり人皇四十九代光仁天皇御宇宝亀二年境内地 四丁四方赦免地となり、降りて別所氏三木城主たる時崇敬厚く社領五十石を寄進祭典 営繕に当ったと云われ、其後天正年間減地となるも、東城に小祠を建て御旅所と名づ く(元の祇園さん)西城にも小祠を建て(賀神社)旧境内東西の境界の遺跡とする。
この頃の境内地域は東西に連る松林にて「さなぎの森」と呼ばれた。嘉吉年間赤松氏 の和阪ノ戦、天文年中町野入道の放火、天文年間羽柴氏三木城攻め等のしばしの兵火 に罹り社殿、旧記をことごとく焼失すると伝う。明治十二年七月二日県社に列せられ る。(旧明石郡にては最初なり)
昭和二十年六月太平洋戦争の戦災にて社殿、社務所一切の建物を焼失、昭和三十七年 社殿再建以後現在に至る。
これからもわかるように、元々はかなりの敷地を有していた大きな神社だったと思われます。
「さなぎの森」だったことからか、地元の古い方は佐奈岐神社と呼ばれているとか。
主祭神は伊弉册大神、配祀神は素盞嗚大神と、母と子が祀られている神社です。
明石市岬町19-8
〆鳥居
拝殿
1962年に再建
拝殿内
手水舎
摂社 福徳三宝荒神社
福徳三宝荒神社
末社
大地主神社、猿田彦神社
由緒書き
歴史
当社は延喜式神名帳に云う明石郡九座の一つ伊和都比売神社にて人皇十代崇神天皇御宇六年九月十日勧請せられた式内社であり人皇四十九光仁天皇御宇宝亀2年境内地四町四方放免地となり降りて別所氏三木城主たる時崇敬厚く社領五十石を寄進祭典営繕に当たった云われ其後天正年間減地となるも東域に小祠を建て御旅所と名付く(元の祇園さん)西域にも小祠を建て(賀神社)旧境内東西の境界の遺跡とする。この頃の境内地域は東西に連なる松林にて「さなぎの森」と呼ばれた。
嘉吉年間赤松氏の和阪ノ戦天文年中町野入道の放火天文年間羽柴氏三木城攻め等しばしば兵火に罹り社殿、旧記をことごとく焼失すると伝う、明治十二年七月二日県社に列せられる。
昭和二十年六月太平洋戦争の戦災にて社殿社務所一切の建物を焼失、昭和三十七年社殿再建、平成七年一月十七日の大震災で一部被害を受け、三宝荒神社の新改築本社殿の改修工事が行われた。
名称 | 伊弉冊神社 |
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読み方 | いざなみじんじゃ |
通称 | 佐奈岐神社、伊弉册神社 |
参拝料 | なし |
トイレ | なし |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | なし |
電話番号 | 078-911-3931 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
詳細情報
ご祭神 | 《合》宇迦御魂大神,金山彦大神,大山祇命,磐長比売命,木花咲耶姫命,《主》伊弉冊尊,《配》素盞嗚尊 |
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創建時代 | 崇神天皇時代6年 |
ご由緒 | 当社は延喜式神名帳に云う明石郡九座の一つ伊和都比売神社にて人皇十代崇神天皇御宇六年九月十日勧請せられた式内社であり人皇四十九光仁天皇御宇宝亀2年境内地四町四方放免地となり降りて別所氏三木城主たる時崇敬厚く社領五十石を寄進祭典営繕に当たった云われ其後天正年間減地となるも東域に小祠を建て御旅所と名付く(元の祇園さん)西域にも小祠を建て(賀神社)旧境内東西の境界の遺跡とする。この頃の境内地域は東西に連なる松林にて「さなぎの森」と呼ばれた。
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体験 | 御朱印 |
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