ぜんらくじ|天台宗|法寫山
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御朱印帳 | - | ||
駐車場 | 山門横の道を通って境内に駐車可 |
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無量光寺のすぐ近くにあるお寺です。
善楽寺は境内塔頭の戒光院・円珠院 境外塔頭の実相院の総称で 明石市内で最も古い寺院です。
山号は法寫山 宗旨宗派は天台宗 です。
とりあえず3院以外の部分を善楽寺として投稿します。
源氏物語縁のお寺の近くですから きっとこちらも歴史のあるお寺だろうと思ってお参りしました。
そうそう 天守閣はないのですが明石城も有名でした。
城下町として栄えたのですから そりゃあ寺社も充実しているわけです。
平清盛五輪塔や観音様や水子地蔵大菩薩など 石仏や石碑など多いです。
文部省唱歌「牧場の朝」の碑があるのですが 縁が分かりませんでした。
境内はほぼ戒光院という感じで 円珠院は門を通った先にありました。
山門
石柱 戒光院・円珠院が明記されています
地蔵様
水子地蔵大菩薩 右手の石碑は不思議な形をしています
平清盛五輪塔
観音様
文部省唱歌「牧場の朝」碑
善楽寺
~播磨守 平清盛五輪塔~
山号 法冩山 善楽寺
宗派 天台宗
御本尊 阿弥陀如来
開基 法道仙人
(飛鳥時代・大化年中 645~650)
縁起
善楽寺(戒光院)は孝徳天皇の大化年中(六四五―六五〇)に天竺の高僧法道仙人が開創した。天台宗の大寺院で、明石では最も古い寺である。
平清盛ゆかりの地でもあり、源氏物語の舞台にもなるほど知られたところであった。
寺伝によると、平安時代中期の天喜元年(一〇五三)一〇月二六日に住職だった源泉座主が延暦寺第三十一世座主になられている。短期間の座主ではあったが、当時の勢力を物語る出来事であった。しかし、元永二年(一一一九)には火災で堂塔を焼失した。
それから三〇余年ののちの保元元年(一一五六)播磨守に任じられた平清盛はこの地を重視し、善楽寺の全ての堂塔伽藍を再興、念持仏であった木造の地蔵尊と寺領五〇〇石を寄進した。この付近は当津と呼ばれる庄村で、海路の要衝であったためといわれる。それ以来、この中心寺院として栄え、平安時代末期に十七ヵ院を持ち、寺域も北は樽屋町、東は五分一町(日富美町)にわたる約一㌔平方という広大なものだった。
このころ当寺には、清盛の弟教盛の子忠快法印が寺僧としており、源平合戦の最中である養和元年(一一八一)に亡くなった清盛の供養のため、巨大な五輪塔を建てた。戦国時代の天文八年(一五三九)には再び戦乱のなかで本堂などを焼失、文禄二年(一五九三)に再建している。
江戸時代には明石藩主から黒印を与えられ、数々の寄進を受けた。五代藩主松平忠国公は、源氏物語の世界をここにみて、明石入道の碑を建てた。淡路島を前に美しい寺であったのだろう。
境内の美しい松にも「光源氏明石之浦之松」の名がつけられた。このため、全国から文人墨客が訪れ、多くの書画を残したという。
昭和二〇年七月七日、戦火によって三たびすべてを焼いた。本堂、仏像、寺宝など灰燼に帰した。同五三年一二月、昭和の再建がはじまり、まず十王門が復活、同六三年三月三〇日、四度目の復興を成し遂げた。現在も明石有数の寺院として訪れる人は絶えない。
戒光院の御本尊は、京都の大仏師・松下宗琳作。
京都大原・三千院の阿弥陀三尊をモデルに、新御本堂に安置されています。
また、円珠院には、宮本武蔵が作庭したと言われる枯山水の一部があります。
~・~・~・~
曜日にかかわらずお参りされる方々の途切れることはありませんでした。
お彼岸が近いこともあり、広大な境内から読経が心地よく響いた後は 檀家さま宅へ御住職自ら出向かれて、分刻みのお忙しさのご様子でした。
順番待ちの中、一人一人にお声掛け、軽快にお優しくお話し戴きました。
ご拝顔の上素晴らしい時間を頂戴し、御朱印を拝受できましたことがとても嬉しかったです。
ありがとうございました。
明石市大観町11―8
問合せ先 戒光院
善楽寺 戒光院 境内
左の「光源氏古跡明石之浦浜之松」奥には、
伊藤博文公婦人母堂の墓碑があります。
戒光院 御本堂
魚藍観世音菩薩像と魚供養碑
平清盛供養塔
花崗岩 高さ3.36m
観音像
牧場の朝 歌碑
光源氏古跡 明石之浦浜之松
5代藩主松平忠国公建立
「光源氏古跡明石の浦の浜の松」石碑
源氏物語に登場する明石の君の父上・明石入道の「浜の館」跡「明石入道の碑」
贔屓(龍の九子)の手水鉢
戒光院 庫裡
法冩山善楽寺 戒光院御朱印
明石四國八十五番札所
円珠院へ
円珠院御本堂
宮本武蔵作庭枯山水
善楽寺山門
平清盛五輪塔がある「善楽寺」
兵庫r718より南側にあるお寺通り。一番公園の近く。北は円珠院、南は実相院、裏に無量光院、境内に戒光院。
圓珠院・戒光院・実相院の3つで「善楽寺」で、善楽寺自体今はない。
駐車場境内。
山門の横に由緒が書かれた石碑。「善楽寺 円珠院・戒光院」と書かれた石標があるが、円珠院は山門くぐってもない。
山門くぐって左手にお地蔵さんが並び、ただっ広い境内。右側にある建物は「戒光院」
境内に「清盛五輪塔」「牧場の朝歌碑」「明石入道之碑」がある。善楽寺の本堂なんかはない。
平清盛の甥・忠快律師(平教盛の子)が寺僧であった際に、清盛供養のため五輪塔を建立。清盛も保元年間に伽藍を再興している。
山門
石碑
お地蔵さん
清盛五輪塔。明石市指定文化財。
<明石入道之碑>
『源氏物語』の明石の君の父・明石入道の「浜辺の館」であったとされる
<牧場の朝歌碑>
NHKみんなの歌でもある文科省唱歌「牧場の朝」の作曲者・船橋栄吉が明石市出身だった経緯で歌碑。
境内全体
歴史
善楽寺は孝徳天皇の大化年中(643〜650)に天竺の高僧法道仙人の開創した。天台宗の大寺院で、明石では最も古い寺である。平清盛ゆかりの地でもあり、源氏物語の舞台にもなるほど知られたところであった。
寺伝によると、平安時代中期の天善元年(1052)10月26日に住職だった源泉法師が延暦寺第三十一世座主になられている。短期間の座主であったが当時の勢力を物語る出来事であった。しかし元永二年(1119)には火災で堂塔を焼失した。それから三十余年のちの保元元年(1156)播磨守に任じられた平清盛はこの地を重視し、善楽寺のすべての堂塔伽藍を再興、念持仏であった木造の地蔵尊と寺領五百石を寄進した。この付近は当津のと呼ばれる庄村で、海路の要街であったためといわれる。それ以来、ここの中心寺院として栄え、平安時代末期には十七ヶ院を持ち、寺域も北は樽屋町、東は材木町にわたる約1㎢という広大なものだった。
このころ当寺は、清盛の弟教盛の子・忠快法印が寺僧としており、源平合戦の最中であった養和元年(1181)に亡くなった清盛の供養のため、巨大な五輪塔を建てた。戦国時代の天文八年(1593)には再び戦乱のなかで本堂などを焼失、文禄二年(1153)に再建している。
江戸時代には江戸藩主から黒印を与えられ、数々の寄進を受けた。五代藩主松平忠国は、源氏物語の世界をここにみて、明石入道の碑を建てた。淡路島を前に美しい寺であったのだろう。境内の美しい松にも「光源氏明石浦浜之松」の名がつけられた。このため、全国から文人墨客が訪れ、多くの書画を残したという。
昭和二十年七月七日、戦災によって三たびすべてを焼いた。本堂、仏像、寺宝など灰塵に帰した。同五十三年十二月、昭和の再建がはじまり、まず十王門が復活。同六十三年三月十日四度目の復興をなし遂げた。現在も明石有数の寺院として訪れる人は絶えない。
名称 | 善楽寺 |
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読み方 | ぜんらくじ |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
詳細情報
ご本尊 | 地蔵菩薩 |
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山号 | 法寫山 |
宗旨・宗派 | 天台宗 |
創建時代 | 大化年間(645〜650) |
開山・開基 | 法道仙人 |
文化財 | 平清盛五輪塔(市指定文化財) |
ご由緒 | 善楽寺は孝徳天皇の大化年中(643〜650)に天竺の高僧法道仙人の開創した。天台宗の大寺院で、明石では最も古い寺である。平清盛ゆかりの地でもあり、源氏物語の舞台にもなるほど知られたところであった。
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体験 | 有名人のお墓伝説 |
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