さいとくじんじゃ
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歳徳神社の御朱印・御朱印帳
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電話番号 | 0792537415 (世話人 牛尾自治会長) |
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千姫の小路と歳徳神社
御祭神 歳徳大神(さいのかみ)
歳徳大龍神
歳徳神社HP
http://www.saitoku-jinjya.com/
姫路市飾東町佐良和(さろお)895
佐良和の言い伝え 『庄山城の武士で戦のとき脚気のために働けなかった者がある。この武士は戦えなかったことを無念に思い、佐良和(さろお)へ来て脚気に苦しむ人たちのため一心に修行をつみ、後に「歳徳神社」の神様になったそうである。佐良和の古老はこういうように言い伝へている。』
歳徳神社につきましては、本所牛尾自治会長(御世話人)にご連絡の上、2月に記載予定です。
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姫路城を取り囲む中堀の西側、船場川との間の中州部分に造られた遊歩道が千姫の小径。起点である市乃橋のたもとには、千姫の像も立っています。千姫は2代将軍・徳川秀忠の娘で、本多忠刻と再婚。姫路城に暮らし、播磨姫君と呼ばれていました。
千姫は、7歳で豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼と政略結婚。 大坂夏の陣で炎上する大坂城から救出され、江戸に帰る途中、桑名城主・本多忠政=徳川四天王・本多忠勝の子、正室は家康の孫・熊姫)の子・本多忠刻(ほんだただとき)と運命的な出会いをします。 桑名の七里渡しの船中でたまたま本多忠刻と同船となり、惹かれ合ったというドラマチックな展開に。 津和野藩主・坂崎直盛は、千姫輿入れの行列を襲っての強奪を企てますが(千姫事件)、大名の坂崎氏はこれによって断絶。 その後、本多忠政は桑名藩主から、西国の押さえとして姫路藩主となり、元和3年(1613年)、千姫も姫路城に移り住んでいます。
千姫の小径は、千姫が忠刻とくつろいだ西の丸の化粧櫓(徳川家から輿入れ時に賜った10万石の化粧料で造ったとされる櫓)、侍女たちが待機した長局の白壁を見上げるコースとなるのが名の由来です。
千姫の小径の脇を流れる船場川は外堀としても機能の他、瀬戸内海交通の要衝である飾万津(しかまづ=飾磨津)との舟運も担っていました。 船場川という名も本多忠政が舟運に活用し、城下の物流を支えるために船場を築いたこと由来する名前で、姫路入城の翌年、元和4年(1618年)にはすでに高瀬舟が上っています(1年ほどで船場川を改修)。 上りは陸から綱で引き、下りは流れに任せて下っています。 江戸時代の舟運の名残りとしては、材木町に高瀬舟の舟溜りの船入川、八代本町に船着場跡があります。 本多忠政が舟運にこだわったのは、藩主だった桑名でその重要性を目の当たりにしていたからかもしれません(姫路藩主となる前年に東海道の七里の渡しが始まっています)。
姫路市は広く、瀬戸内海から山へ。水の豊かな土地です。
この後、千姫天満宮、男山八幡宮、水尾神社を投稿させて頂きます。
姫路市材木町25
千姫は化粧櫓の方向をお向きになられています
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