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こうとくじ(こうとくぜんじ)|臨済宗大徳寺派瑞雲山

廣徳寺(廣德禪寺)のお参りの記録一覧
兵庫県 園田駅

きどっち
きどっち
2025年03月06日(木) 17時27分19秒
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臨済宗大徳寺派 瑞雲山 廣徳寺

豊臣秀吉公ゆかりの寺になります。

本堂は結構新しい印象ですが、600年以上の歴史あるお寺です。
太閤記によると、天正10年(1582年)羽柴秀吉が備中高松城を水攻めにして戦っているところ、本能寺の変により織田信長が亡くなったとの連絡が届きました。
秀吉は兵をまとめて明智光秀が陣を構える京都山崎へと向かいますが、尼崎に差し掛かったところで敵兵が待ち伏せていました。
この危難を避けるため、秀吉は広徳寺内に逃げ込み、住持慶首座という寺僧にかくまわれ助かったのだそうです。
その功績により、秀吉から三百石の寺領を受け朱印を得たとのこと。

<御本尊> 釈迦牟尼仏木造(伝運慶作)
<脇侍>  文殊普賢菩薩

<沿革>~廣徳寺パンフレットより~
臨済宗大徳寺派瑞雲山廣徳寺は、足利義満の時代、明徳年間(1390-94)に、京都大宮の地より尼崎に誘致創建された歴史上由緒深い禅寺である。
重編応仁記によれば、廣徳寺は最初尼崎近郊大物の庄にあったと記されている。
開山は大徳寺第7世、言外宗忠和尚。 後に勅謚を得て密伝正印国師となられた名僧である。
開基本願は永徳年間(1381-84)華岳宗大禅定尼と伝わっており、宗栄尼に就いては出生等は不詳であるが、当時の此の辺りの領主にゆかりのある身分高い人であったと推知されている。
その後応仁の乱などの戦乱によって、当寺は一時期荒廃衰微していたが、永禄年間(1558-70)大徳寺107世、笑嶺宗訴大和尚が出て廣徳寺を再興、中興開山となった。
笑嶺和尚は、織田・豊臣等の戦国時代に活躍した名僧であり、織田信長の大葬儀に導師を務め、後に祖心本光禅師の謚号を賜った有名な方である。
当時尼崎・伊丹などの一帯は戦国の勇将荒木村重の支配下にあり、領主と笑嶺和尚の法縁で廣徳寺の勢威は大いにあがった。
浮世絵大津絵の祖といわれる岩佐又兵衛は村重の子と言われ、又兵衛が大徳寺や廣徳寺に出入りしたのも笑嶺和尚の縁故に依るという。
日本人名辞典には、又兵衛一説に木村姓を名乗るは父荒木村重の中央二字を姓として用うるとある。
後に荒木村重は織田信長に討たれ、信長また明智光秀にそむかれて滅び、豊臣秀吉の時代となる。

廣徳寺(廣德禪寺)(兵庫県)
廣徳寺(廣德禪寺)(兵庫県)

山門

廣徳寺(廣德禪寺)(兵庫県)

本堂

廣徳寺(廣德禪寺)(兵庫県)
廣徳寺(廣德禪寺)(兵庫県)
廣徳寺(廣德禪寺)(兵庫県)
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