ひじおかてんまんぐう
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臂岡天満宮ではいただけません
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臂岡天満宮のお参りの記録(1回目)
投稿日:2022年07月11日(月)
参拝:2022年7月吉日
伊丹市の緑ヶ丘公園から北東にすぐのところに鎮座。
神社周辺はとても細い道路でどこから神社の駐車場に入ってよいのか判りにくかったですが、なんとかたどり着くことができました。
大きな車の方は、車では来ないほうがいいかもしれません。
昔、この地の良霊寺という七堂伽藍のお寺があったようですが炎失し、その後建立の願主もなく、旧跡が残るのみとなっていたそうです。
そこへ昌泰4年(901年)、菅原道真公が筑紫へ御下向の時に立ち寄られ、「我赦免を蒙りなは此所をふたたび仏法繁昌の霊地となすべし」と残されたそうです。
以下は境内の由緒書より
『延喜年間(901~923)の創建と伝えられている。通称「いもじの天神」と云う。
「いもじ」の地名は、中世に各地を移動して武士や民衆に金物を供給したり、寺の鐘を鋳造したりした職人集団である「鋳物師(いもじ)」に由来しているものと思われる。
祭神は道真公ほか。
道真公は醍醐天皇に左遷され、筑紫へ行く道中で北村の「いもじ」に立ち寄り、あられ茶を飲みながら肘を枕に休まれたのでそれ以来、この丘が肘岡と呼ばれるようになったといわれている。
後にこの地に建立された社を臂岡天満宮と名付けたものである。
また道真公の出立にあたって、村の男衆が大きなおむすびをたくさん作って差し出し、道中の無事をお祈りしたといわれていることから、現在でも祭りの折にはおむすびを供え、参拝の人々に配って無病息災をお祈りしている。』
ちなみにこちらの臂岡天満宮様では、御朱印はないとのことです。
神社周辺はとても細い道路でどこから神社の駐車場に入ってよいのか判りにくかったですが、なんとかたどり着くことができました。
大きな車の方は、車では来ないほうがいいかもしれません。
昔、この地の良霊寺という七堂伽藍のお寺があったようですが炎失し、その後建立の願主もなく、旧跡が残るのみとなっていたそうです。
そこへ昌泰4年(901年)、菅原道真公が筑紫へ御下向の時に立ち寄られ、「我赦免を蒙りなは此所をふたたび仏法繁昌の霊地となすべし」と残されたそうです。
以下は境内の由緒書より
『延喜年間(901~923)の創建と伝えられている。通称「いもじの天神」と云う。
「いもじ」の地名は、中世に各地を移動して武士や民衆に金物を供給したり、寺の鐘を鋳造したりした職人集団である「鋳物師(いもじ)」に由来しているものと思われる。
祭神は道真公ほか。
道真公は醍醐天皇に左遷され、筑紫へ行く道中で北村の「いもじ」に立ち寄り、あられ茶を飲みながら肘を枕に休まれたのでそれ以来、この丘が肘岡と呼ばれるようになったといわれている。
後にこの地に建立された社を臂岡天満宮と名付けたものである。
また道真公の出立にあたって、村の男衆が大きなおむすびをたくさん作って差し出し、道中の無事をお祈りしたといわれていることから、現在でも祭りの折にはおむすびを供え、参拝の人々に配って無病息災をお祈りしている。』
ちなみにこちらの臂岡天満宮様では、御朱印はないとのことです。
境内東側の鳥居
駐車場側から撮影
駐車場側から撮影
注連柱
注連柱の手前にあった手水鉢
注連柱のすぐ横にある手水舎
拝殿の扁額
拝殿向かって右手前にある神牛社
拝殿向かって左手前の撫牛さん
本殿
拝殿南側の摂社 臂岡ゑびす社
御祭神は、天照皇大神 蛭子大神 大國主大神
御祭神は、天照皇大神 蛭子大神 大國主大神
拝殿北側の摂社 三宝社
御祭神は、火産日神 奥津彦神 奥津姫神
御祭神は、火産日神 奥津彦神 奥津姫神
詳細不明
駐車場にあったけど、何だろう?
駐車場から臂岡天満宮とは反対方向に鳥居。
気になって行ってみると。。
気になって行ってみると。。
白鬚稲荷社
どうも臂岡天満宮の末社ではない?
どうも臂岡天満宮の末社ではない?
すてき
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