なんぐうじんじゃ
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楽しみ方南宮神社のお参りの記録(2回目)
投稿日:2026年01月09日(金) 23時41分22秒
参拝:2026年1月吉日
西宮神社にお詣りしたら 必ずこちらにもお詣りしましょう。
西宮神社の境内にありますが こちらは廣田神社の境外摂社です。
西宮神社がそもそも廣田神社の境外摂社だった歴史をもち 後に独立したことから こちらの南宮神社が境外摂社としてこの地に残ったことになります。
まさに下剋上の世界。
神社仏閣にそのような人間的な現象が起きてほしくないなぁと思ってしまいます。
ネット情報です。
南宮神社は廣田神社の境外摂社で 西宮神社境内の南門近くに北面して鎮座する。
古くは「浜の南宮」とも呼ばれていた。
御祭神は豊玉姫神・市杵島姫神・大山咋神・葉山姫神の4柱だが 当初は三座だったようだ。
創建については詳らかでないが 長承元年(1132)の官宣旨案に「北南両社」とあり さらに「当社者 崇廟於山脚 或卜台於海辺」と記されていることから 当時すでに御前浜に別宮として南宮が存在し 北の山麓の本社とともに「北南両社」と呼ばれていたことがわかる。
廣田社神領の海岸部には海運業に携わる廻船人や漁民がいた。
これらの人々を直接管掌したのが南宮であると考えられており 南宮の敷地では古くから市が立っていた。
西宮神社は 南宮境内にあった戎社(戎三郎殿)を起源とする。
古くは豊漁の神として信仰されていたが 南宮の敷地に立つ市の市神・商神としても崇敬されるようになった。
さらに招福神として広く信仰を集めるようになり 南宮はおろか本社もしのぐほどに発展。
南宮境内は戎社を中心とする西宮神社境内となった。
平安時代末期より行われていた神幸式では 広田・南宮・西宮(戎社)の三基の神輿が数百隻の船で和田岬に渡御していたが 織田信長の時代に途絶えたという。
明治初年 西宮神社は廣田神社から分離したが 南宮と末社の児社はその後も廣田神社の境外摂末社として現在に至っている。
西宮神社の境内にありますが こちらは廣田神社の境外摂社です。
西宮神社がそもそも廣田神社の境外摂社だった歴史をもち 後に独立したことから こちらの南宮神社が境外摂社としてこの地に残ったことになります。
まさに下剋上の世界。
神社仏閣にそのような人間的な現象が起きてほしくないなぁと思ってしまいます。
ネット情報です。
南宮神社は廣田神社の境外摂社で 西宮神社境内の南門近くに北面して鎮座する。
古くは「浜の南宮」とも呼ばれていた。
御祭神は豊玉姫神・市杵島姫神・大山咋神・葉山姫神の4柱だが 当初は三座だったようだ。
創建については詳らかでないが 長承元年(1132)の官宣旨案に「北南両社」とあり さらに「当社者 崇廟於山脚 或卜台於海辺」と記されていることから 当時すでに御前浜に別宮として南宮が存在し 北の山麓の本社とともに「北南両社」と呼ばれていたことがわかる。
廣田社神領の海岸部には海運業に携わる廻船人や漁民がいた。
これらの人々を直接管掌したのが南宮であると考えられており 南宮の敷地では古くから市が立っていた。
西宮神社は 南宮境内にあった戎社(戎三郎殿)を起源とする。
古くは豊漁の神として信仰されていたが 南宮の敷地に立つ市の市神・商神としても崇敬されるようになった。
さらに招福神として広く信仰を集めるようになり 南宮はおろか本社もしのぐほどに発展。
南宮境内は戎社を中心とする西宮神社境内となった。
平安時代末期より行われていた神幸式では 広田・南宮・西宮(戎社)の三基の神輿が数百隻の船で和田岬に渡御していたが 織田信長の時代に途絶えたという。
明治初年 西宮神社は廣田神社から分離したが 南宮と末社の児社はその後も廣田神社の境外摂末社として現在に至っている。
すてき
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くるくるきよせん3133投稿
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ちぃ




