ふくらはちまんじんじゃ
福良八幡神社のお参りの記録一覧
南あわじ市の福良港とその周辺の市街地を見守る高台にある福良八幡神社。
道の駅福良から、徒歩で参拝させていただきました。
清和天皇の命を受け、宇佐八幡宮の御分霊を勧請して創立されたと伝えられ、三間社流造の本殿は県指定文化財となってます。
祭神は誉田別命(ほむだわけのみこと)。
鎌倉期の作といわれる3体の木造男神坐像があり、三間社流造の本殿は県指定文化財で、もとは桃山風に彩色されていたといいます
生しらす丼😋道の駅福良にて
釜揚げしらす丼とどちらにするか…しばらく悩みました😅
福良八幡神社(ふくら八幡神社) 鳴門東座
~ 秋の大潮・鳴門大渦 七五三花手水 ~
主祭神 誉田別尊
配祀神 仲哀天皇
神功皇后
武内宿禰
祭記事 4月第1日曜日
御由緒
貞観元年(859)、清和天皇の勅願に依り、奈良大安寺の僧行教が宇佐八幡宮の御分霊を奉じて京都男山へ勧請の途次、当浦に寄って創祀された。 貞応2年(1223)、鶴島城主福良義邦が社殿の大造営をなし、同時に神宮寺を建て、八幡宮別当とした。
室町時代末年より工を起し、社殿の大改築を行い、以来延々数十年を経て本殿、幣殿、拝殿、舞楽殿、随神門等を順次竣工した。
現存する三間社流造の本殿は天正3年(1575)上棟された、淡路でも数少ない桃山建築物として、昭和35年(1960)、兵庫県指定文化財となった。当時の棟札が現存する。
~・~・~・~
福良八幡神社は、福良湾を見下ろす丘の上に建つ神社です。
1600年(慶長5)年に本殿が再建されたことが棟札により分かります。
祭神は誉田別命(応神天皇)で、鎌倉期の作といわれる3体の木造男神坐像があり、三間社流造の本殿は県指定文化財で、もとは桃山風に彩色されていたと云われます。
鳥居横の棟札では、 「社伝によれば貞観元年(西暦859年)清和天皇の勅願により、奈良大安寺の僧行教が宇佐八幡宮の御分霊を奉じて京都男山へ勧請の途次に当福良浦によって創祀されました。貞応二年(西暦1223年)釣島城主福良義邦が社殿の大造営を施し、同時に神宮寺を建主し八幡宮別当としました。」 と記されています。 石段を登ったところにある鳥居。こちらには縦書きの八幡宮の額がかかっています。
「往昔福良の浦人 鳴門の海より陰陽石を求め ここ八幡鎮守の聖地にまつる 郷人すべて日夕これを礼拝祈願すればその霊験あらたかなるべし」(看板より)
摂末社
福良護国神社
高良神社
大神神社
八坂神社
皇大神宮社
住吉神社
海中より出た石を祭祀の石とする文化は、
千葉県印西市の世直し石尊、
岐阜県各務原市の御井神社神璽、
京都市北区松ヶ崎町の岩上神社
などに類例があります。
陰陽石に隣接して「跨石(またげいし)」
もあります。
東の青龍・南の朱雀
西の白虎・北の玄武
~・~・~・~
♯七五三
♯花手水
♯秋の大潮
♯大渦
♯2022
♯福良湾
♯道の駅
♯ハイウェイ
♯スタンプラリー
南あわじ市福良甲1331
秋の大潮 大渦 2022
うずしおクルーズ
帆船・咸臨丸
福良八幡神社 花手水
安政四年(1857)頃の八幡神社
瀬戸の潮みず交流広場
~味地草より~
御神木
一の⛩️
横向扁額
二の⛩️
右 福良護国神社
陰陽石とまたげ石
拝殿へ
今年も🍊がたわわです
拝殿
拝殿からみえる御本殿
御本殿
御本殿
御本殿
拝殿西後方より
御本殿後方には
高良神社(御祭神 武内宿禰)
大神神社(御祭神 大物主大神)
向かって右 八坂神社
左 皇大神宮社
西方の⛩️(扁額 八坂神社)へ降りて
お山(丘)自体が福良八幡神社境内になります
秋の大潮 福良港 大渦スタンプラリー2022
福良八幡神社も会場でした
今回は御朱印拝受ならず、こちらのスタンプを大切にしたいです♡⛴️
広い境内から住吉神社方向へ
住吉神社扁額♡
昭和南海地震津波
第二室戸台風高潮之碑
おまけ
明石海峡大橋
淡路SA
人人人車車車🏍🏍🏍
「淡路SA」
ハイウェイスタンプ
「室津PA」
ハイウェイスタンプ
福良湾の夕景
帆船・咸臨丸や日本丸
缶バッジを頂きました
ありがとうございました
淡路人形座
道の駅 「福良(ふくら)」
福良八幡神社と淡路人形座の間に
巨大バルーン??!
瀬戸の潮みず交流広場!?
福良湾 煙島
平敦盛首塚
平敦盛の人形浄瑠璃上演へ 首塚で供養と成功祈願
福良八幡神社宮司さまと淡路人形座の皆さん
源平による一の谷合戦(1184年)で早世した平敦盛を題材にした古典作「一谷嫩(ふたば)軍記 須磨浦組討の段」が、19日から3日間、淡路人形座(兵庫県南あわじ市)で公演されるのを前に、同座の座員らが7日、敦盛が荼毘(だび)に付されたと伝えられる同市の福良湾にある煙島を訪れ、供養と上演の成功を祈願した。 敦盛は平清盛の弟、平経盛の末子。16歳のときに一の谷合戦に加わり、3月20日に源氏方の熊谷直実に討たれた。福良湾に滞在していた経盛に首が届けられ、煙島で火葬されたとされる。島の名前の由来にもなったという。 敦盛の命日に合わせ、淡路人形座は2013年から同作の公演に取り組む。煙島は地元では「禁足地」とされており、地元住民も渡ることが少ない。座員らは公演前に煙島にある厳島神社の境内や石段を清掃。落ち葉などを取り払った後、境内にある首塚で神事に臨んだ。敦盛の人形を扱って玉串をささげ、供養と公演の成功、淡路人形浄瑠璃の繁栄を祈願した。
作品は、熊谷と敦盛の一騎打ちの場面がクライマックス。敦盛を組み伏せた熊谷は、自身の息子と同じ年頃だったため見逃そうとするが、源氏方の軍勢が見ていたため、首を落として涙を流す。
淡路人形座
TEL0799・52・0260
~神戸新聞NEXTより転載~
淡路人形座
次は福良港の鳴門御崎神社御旅所を
探してみます
福良八幡神社⛩️横に「イチノキ」
こちらの前の道を山裾づたいに北上すると
『檪神社』当たります
福良八幡神社 鳴門東座
~桃山建築物~
主祭神 誉田別尊
配祀神 仲哀天皇
神功皇后
武内宿祢
祭記事 4月第1日曜日
御由緒
貞観元年(859)、清和天皇の勅願に依り、奈良大安寺の僧行教が宇佐八幡宮の御分霊を奉じて京都男山へ勧請の途次、当浦に寄って創祀されました。
現存する三間社流造の本殿は天正3年(1575)上棟された、淡路でも数少ない桃山建築物として、昭和35年(1960)、兵庫県指定文化財となった。当時の棟札が現存します。
~・~・~・~
福良八幡神社は、福良湾を見下ろす丘の上に建つ神社です。
1600年(慶長5)年に本殿が再建されたことが棟札により分かります。
祭神は誉田別命(応神天皇)で、鎌倉期の作といわれる3体の木造男神坐像があり、三間社流造の本殿は県指定文化財で、もとは桃山風に彩色されていたと云われます。
鳥居横の棟札では、 「社伝によれば貞観元年(西暦859年)清和天皇の勅願により、奈良大安寺の僧行教が宇佐八幡宮の御分霊を奉じて京都男山へ勧請の途次に当福良浦によって創祀された。貞応二年(西暦1223年)釣島城主福良義邦が社殿の大造営を施し、同時に神宮寺を建主し八幡宮別当とした。」 と記されています。
石段を登ったところにある鳥居。こちらには縦書きの八幡宮の額がかかっています。
「往昔福良の浦人 鳴門の海より陰陽石を求め ここ八幡鎮守の聖地にまつる 郷人すべて日夕これを礼拝祈願すればその霊験あらたかなるべし」(看板より)
海中より出た石を祭祀の石とする文化は、
千葉県印西市の世直し石尊、
岐阜県各務原市の御井神社神璽、
京都市北区松ヶ崎町の岩上神社
などに類例があります。
陰陽石に隣接して「跨石(またげいし)」もあります。
女神輿が2基収納されていますが、神輿の御神体は海中からとれた丸石だったといいます。 石は布にくるまれ、石そのものを見ることはできないそうです。この2つの石は個人所蔵とのことです。
東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武。
五行説に照らし合わせて中央に麒麟や黄竜を加え数を合わせる。麒麟や黄龍を入れた場合は五神あるいは五獣と呼び、淮南子などによると、方角には四獣と共に季節神として五帝を補佐する五佐のうち四佐が割り当てられています。
~・~・~・~
歴史ある神社の宮司さまとお話できました上に、有難いお言葉をかけて頂きました。
嬉しかったです。
ありがとうございました。
南あわじ市福良甲1331
東の青龍
南の朱雀
西の白虎
北の玄武
縦書「八幡宮」扁額
百百千度石
拝殿
拝殿より 本殿
本殿東側より
本殿西側より
拝殿
狛犬さま
狛犬さま
狛犬さま
狛犬さま
拝殿脇より 摂社福良護国神社
福良護国神社
鳴門の海より 「陰陽石」
右に「跨石 またげいし」
本殿裏摂社
東側に長い長い道があり
途中に境内へ上がれる車道も越え進むと
住吉神社へと繋がります
住吉神社と福良八幡神社の間を下ると
⛩️横に 御神木
こちらの⛩️と車道側に
安政四年(1857年)頃の八幡宮絵図
~味地草より~ がかけられています
宮幡八 横扁額
福良八幡神社御朱印
縁起より、こちらに御朱印を拝受
棟札は文字が見え辛く
御由緒書
・・・
! トンビさんもありがとう
福良八幡神社
みかん🍊がたわわでした
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