留辺蘂神社の日常(13回目)|北海道留辺蘂駅
札幌からお越しの参拝者様が御朱印を受けて下さり、道中は積雪がほとんど無かったそうですよ。
本日は留辺蘂神社の境内末社である、聖徳太子神社の由緒についてのお話をいたしますね。
聖徳太子神社は、その名の通り聖徳太子が御祭神です。
そして実は……
設立の詳細が不明なんですね(◎_◎)ビックリ。
そんなコトあるぅぅ?!(←蜘蛛を見た我●善逸の勢いで)
…と、感じた方もいらっしゃることでしょう。
あるんです、結構。
神社の創建には実に様々な事情があり、その中の一つに
『民衆が心の拠り所として祀り始めた』というものがあります。
聖徳太子神社は、こちらに分類されるのではないかと推測されます。
その場合、誰かが創建当時に明文化して書き記さなければ口伝となります。
そうなると語り継ぐ子孫が土地を離れてしまえば、もう事実を知る者は居なくなります。
加えて、留辺蘂神社は僅かな期間ではありますが、宮司不在の時期もあったと聞き及んでおります。
それらの事情から詳細不明とされているのです。
…では、ここからは現宮司と禰宜が聖徳太子神社を調べて至ったわかる範囲での由緒を記載します。
『現存している昭和五十七年の聖徳太子神徳讃仰之碑より、
大正元年(西暦1912年)頃に留辺蘂町で太子講が設立され、
聖徳太子の神徳を仰ぎ毎年例祭を斎行して来たことがわかる。
かつて存在した太子講という組織は実質すでに無く、当時を語り継ぐ者は居ない。
現存する聖徳太子神社の社殿が具体的にいつ創建されたかは不明であるが、
御幣に「昭和5年6月15日奉納」と記されているため約94年程前には社殿が存在していたと推測される。
それ以前の太子講設立から20年余りという空白の期間は、社殿がどのような形状をしていたのか不明である』
…さて、ここから先は
『聖徳太子とはどういう人物なのか。太子講とは何なのか』
ということについて、留辺蘂神社現宮司の書いた記事を転載しておきます。
興味のある方は、是非ご覧下さい。
Facebook留辺蘂神社 公式アカウント
【令和6年2月23日の留辺蘂神社現宮司投稿記事より】
https://www.facebook.com/profile.php?id=61553084382117
『留辺蘂神社の境内社「聖徳太子神社」は、その名の通り聖徳太子を御祭神としてお祀りしている神社ですが、
昨日(2月22日)は、同社御祭神である聖徳太子が薨去された日、所謂「聖徳太子の命日」でした。
聖徳太子は、本年から遡る事1,402年前の、推古天皇30年2月22日(西暦622年4月8日)に薨去しました。
昨日が聖徳太子薨去日であった事に因み、今回は、聖徳太子信仰や、当社境内の聖徳太子神社について、
以下に解説させて頂きます。
聖徳太子は、飛鳥時代に仏教が我が国へと伝来した際、崇仏派(仏教を積極的に受容する勢力)の蘇我馬子と、
排仏派(日本では古来から「神」をお祀りしているため、外来宗教の「仏」は不要であり、
仏教は徹底的に排除するとした勢力)の物部守屋とが戦った内乱「丁未の乱」に於いて、
蘇我氏の陣営に加わって戦い、蘇我氏の勝利に終わったその内乱後は、戦勝を仏に感謝して寺院を建立するなど
仏教を篤く崇敬・保護し、現在に於いても我が国の仏教のほぼ全宗派から「仏教を保護し、日本に仏教を根付かせた大恩人」
として尊崇されている事から(聖徳太子を本尊としてお祀りしている寺院もあります)、
世間一般では、聖徳太子は「神道側ではなく仏教側の人」と思っている方も少なくないようですが、
実際には、聖徳太子は神様への対応や神道の扱いを決して疎かにしていたわけではなく、
神道は従来通り崇敬し、その上で仏教も崇敬し手厚く保護をしていました。
そもそも聖徳太子が在世されていた当時の仏教は、純然たる宗教もしくは宗教哲学である現代の仏教とは異なり、
諸々の生産技術や工芸なども含めた最先端の一大総合文化であり、聖徳太子はその渡来文化を国内で積極的に
推進させるためという側面もあって、造寺造仏を奨励し、四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、法起寺、葛木寺などの
大寺院を次々と建立していました。
当然、それら大寺院の造営やそれに伴う諸々の建築には、我が国に伝来したばかりの先端的な技術が積極的に導入・反映されており、
その結果、木工の大工をはじめ、建築に関わる様々な職種に就く職人達の育成が、飛躍的に促進される事になりました。
そういった経緯から、聖徳太子は民間信仰に於いては古来より大工をはじめとする建築関係者から篤く崇敬され、
聖徳太子をお祀りする組織「太子講」などでは、聖徳太子は「建築関係職人の守護神」「建築の祖神」とされてきました。
特に近世になってからは全国的に、大工、左官、屋根職、石屋、畳屋、表具師、鳶、瓦製造、桶屋、鍛冶屋などの職人達が
太子講を組織し、聖徳太子を仏様としてではなく神様としてお祀りする習慣が広がっていきました。
ここ留辺蘂に於いても、留辺蘂が開拓されて間もない頃に大工左官家具職人を中心として太子講が設立され、
聖徳太子の御神徳を仰いで毎年例祭が斎行されるようになり、それが、留辺蘂神社境内社「聖徳太子神社」創建の由緒とされています。
同神社では現在でも毎年8月上旬に、地元の建築会社の社長さん達参列の下、太子講祭(聖徳太子神社例祭)が執り行われております。』
すてき
みんなのコメント(6件)
留辺蘂神社
禰宜さま
お世話になります。
今日は図書館に行って、
『新留辺蘂町史』昭和60年3月30日発行
発行者 留辺蘂町役場
を閲覧した中で、本文では聖徳太子神社に繋がる情報はなかったのですが、付属の年表946ページに
「西暦1910年(明治43年)の主な出来事欄に、◯聖徳太子を祭る標柱を建立する(神社の前身)」とあったのですが、
ひょっとして少なくとも1912年より前の1910年と解釈するのは難しいでしょいか?
熊谷
熊谷様
こちらこそ、お世話になっております。
図書館で調査いただき有難う御座います!
ただいま宮司と『1910年と解釈するか否か』について協議中です。
恐れ入りますが、回答は数日お待ちいただけますと幸いです。
再度こちらへコメントいたしますね。
留辺蘂神社
禰宜さま
お世話になります。
活字で何か残っているものがあればと思い楽しみながら閲覧に行って来ました。
色々な行事でお忙しい中でしょうが、お知らせしたくコメントさせていただきました。
該当ページのコピーをこのコメントから送付できないのでコメントだけにしました。
熊谷
熊谷様
お世話になります。
先日頂きましたコメントについての返信が長文になりますので、
神社からのお知らせに投稿いたします。
是非ご覧下さい。
禰宜
留辺蘂神社
禰宜さま
大変お忙しい時期にも関わらず、ご対応いただきありがとうございました。
家系図もですが、それぞれの歴史等を後世のために残しておかないとと思い、学生時代もあまり利用しなかった図書館に行って登録もして書籍の閲覧次第です。
五月には出来たら孫連れて、参拝出来たらと思っています。
ありがとうございます。 熊谷
熊谷様
こちらこそ、ありがとうございます。
ご都合つくようでしたら、是非お孫様もいらして下さいね!
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留辺蘂神社62投稿
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