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にぎつじんじゃ

饒津神社

広島県 白島(広電)駅

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082-261-4616

※お問い合わせの際は「ホトカミを見た」と
お伝えいただければ幸いです。

御朱印について
御朱印
あり
限定
-
御朱印帳
-
パーキング
駐車場
あり

境内

おすすめの投稿

サンダー
2022年10月29日(土)
1141投稿

広島④二葉の里地区の神社はこちらで最後。少し電動自転車に慣れてはきましたが、相変わらずスマホのナビは余り正確に自分の位置を認識せずにあちこち遠回りさせられてしまいます。それでも当初、バスや徒歩で神社巡りをしようと思っていたのが、自転車のおかげで予定を大幅に短縮出来ました。こちらの神社は敷地がが広くゆったりした感があります。広島浅野藩の藩主などが祀らていますが、参拝者は少なく静かなもんです。社務所は開いていず、入り口に書置きの御朱印が用意されていました武将好きの私としては少し残念。
普段、あまり原爆のことを意識していなかったのですが、多くの被爆建造物や説明板を読む機会に触れ、よくここまで復興したものだと感心するとともに、平和が一番と再認識しました。

饒津神社の建物その他

社号標

饒津神社(広島県)

注連柱(被爆建造物)明治43年(1910)御祭神「浅野長政」公300年祭の際に奉納、広島県最大規模

饒津神社の建物その他

常夜灯

饒津神社(広島県)

灯籠

饒津神社(広島県)饒津神社(広島県)

被爆松 最後に残った日幕末の切り株

饒津神社(広島県)

覆屋はこの松の木材を使用

饒津神社(広島県)饒津神社(広島県)

参道 多くの浅野家家臣が奉納した石灯篭が多くあります。

饒津神社(広島県)

狛犬

饒津神社(広島県)饒津神社(広島県)

両部鳥居原爆により神社は悉く灰燼に帰したが、400年祭を迎えるに当って、記念事業の一環として、原爆で失われていた宮島型の檜造大鳥居(両部鳥居)を平成17年・60余年振りに復元

饒津神社(広島県)饒津神社の手水

手水舎(被爆建造物)

饒津神社(広島県)

向唐門 昭和20年原爆で焼失した旧向唐門の礎石の上に再建。龍の彫刻等細部を忠実に復元した(礎石は原爆当時のまま残した)。向唐門は格式上将軍や藩主を祀る神社に用いられた。平成12年8月、再建。

饒津神社の本殿

扁額

饒津神社(広島県)

細長い長方形の石材を横に3段に積んだ単純な布積みであるが、使用されている石材は一つずつが長大で、それまでの石垣の概念とはかけ離れた趣である。

饒津神社(広島県)饒津神社(広島県)饒津神社(広島県)饒津神社(広島県)

この石垣に連なる「25m幅の石段」は江戸時代までに参道として作られた階段の中では、間口の広さ、長大な切石を使っている点で、拝殿前乱積とともに江戸時代のものとしては最大級のものと評価される。

饒津神社(広島県)饒津神社(広島県)

拝殿

饒津神社(広島県)

扁額

饒津神社(広島県)

賽銭箱

饒津神社(広島県)饒津神社(広島県)饒津神社(広島県)

灯籠

饒津神社(広島県)

浅野長勲公頌徳碑 浅野家第14代・芸州広島藩最後の藩主。広島県初代知事(県令)

饒津神社(広島県)饒津神社(広島県)

本殿

饒津神社(広島県)饒津神社(広島県)饒津神社(広島県)

天保六年奉納の灯籠

饒津神社(広島県)饒津神社(広島県)

境内社鳥居

饒津神社(広島県)

境内社 稲荷神社

饒津神社(広島県)饒津神社(広島県)

御陣中御手水鉢

饒津神社(広島県)

御祭神「浅野長政」公が肥前国、名護屋城(佐賀県)内御陣屋(弾正郭(だんじょうぐるわ))でご愛用されたもの。天明五年(1785年)浅野家9代藩主重晟(しげあきら)公の時、御泉邸(縮景園)の清風館へ移設。天保六年(1835年)当社造営の時「御陣中御手水鉢」として現在地に設置。
「殊外古物甚(ことのほかふるきものはなはだ)面白き石手水鉢」と称された。

饒津神社の像

恵比須天

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歴史

宝永3年(1706)綱長公(浅野家第6代・芸州浅野家藩主第4代)の時に、広島城の艮(うしとら/東北鬼門)の方位に当る明星院客殿西方に長政公の位牌堂を建立。
さらに長政公200回御忌に当る文化7年(1810)に斎賢(なりかた)公(浅野家第10代)、前藩主重晟(しげあきら)公(浅野家9代)と共に新たに壮麗な位牌堂を建立した。この位牌堂は饒津神社の先駆的なものであり、この時奉納された文化年間の燈篭や大石水盤等は後に饒津神社創立と共に境内に移されて現存している。 長政公を神として奉祀することは重晟公以来内慮があり 天保6年(1835)11月斎粛(なりたか)公(浅野家11代)が祖先追孝のため社殿を現在地(明星院西方)に造営、二葉山御社と称した。
二葉山の名は饒津神社創祀の際に金葉集・摂政左大臣藤原忠通卿の歌「いかばかり 神もうれしと 三笠山 二葉の松の 千代のけしきを」 新続古今集・後徳大寺左大臣の歌「住吉の 松は昔の 二葉より 久しき事の ためしにぞひく」より藩執政関蔵人らによって命名されたものである。これより明星院山であった背後の山は二葉山と呼ばれるようになった。
御神号は京都・吉田良長に草案を依頼し、「蒼垣・饒津・功健・瑞国・振玉」の五通りが示され、長懋(ながとし)公(斎粛公の叔父)の御選択により「饒津大明神」と定められた。

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饒津神社の基本情報

住所広島県広島市東区二葉の里2-6-34
行き方

広島駅新幹線口(北口)から西へ 徒歩15分

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名称饒津神社
読み方にぎつじんじゃ
通称にぎつさん
参拝時間

祈願受付:9:00~15:00

御朱印あり

限定御朱印なし
電話番号082-261-4616
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttp://www.nigitsu.jp/
お守りあり

詳細情報

ご祭神《主》浅野長政,浅野末津姫,浅野幸長,浅野長晟,浅野長勲
本殿三間社入母屋造
ご由緒

宝永3年(1706)綱長公(浅野家第6代・芸州浅野家藩主第4代)の時に、広島城の艮(うしとら/東北鬼門)の方位に当る明星院客殿西方に長政公の位牌堂を建立。
さらに長政公200回御忌に当る文化7年(1810)に斎賢(なりかた)公(浅野家第10代)、前藩主重晟(しげあきら)公(浅野家9代)と共に新たに壮麗な位牌堂を建立した。この位牌堂は饒津神社の先駆的なものであり、この時奉納された文化年間の燈篭や大石水盤等は後に饒津神社創立と共に境内に移されて現存している。 長政公を神として奉祀することは重晟公以来内慮があり 天保6年(1835)11月斎粛(なりたか)公(浅野家11代)が祖先追孝のため社殿を現在地(明星院西方)に造営、二葉山御社と称した。
二葉山の名は饒津神社創祀の際に金葉集・摂政左大臣藤原忠通卿の歌「いかばかり 神もうれしと 三笠山 二葉の松の 千代のけしきを」 新続古今集・後徳大寺左大臣の歌「住吉の 松は昔の 二葉より 久しき事の ためしにぞひく」より藩執政関蔵人らによって命名されたものである。これより明星院山であった背後の山は二葉山と呼ばれるようになった。
御神号は京都・吉田良長に草案を依頼し、「蒼垣・饒津・功健・瑞国・振玉」の五通りが示され、長懋(ながとし)公(斎粛公の叔父)の御選択により「饒津大明神」と定められた。

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