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千手寺ではいただけません
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せんじゅじ|臨済宗妙心寺派慈雲山

千手寺
群馬県 丸山下駅

パーキング
駐車場
あり

本堂前に乗り付け

御朱印について
御朱印
なし
ありません

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くし
2024年01月07日(日)
1450投稿

七草粥会を終えて崇禅寺を出たもののまだ朝の7時、他の所に行こうにも当然まだどこも開いておらず(*_*;
寺社の朝は早いとはいえ、さすがに最低でも9時前に御朱印もらいにいくのは非常識だろうと思い、無人寺社巡りで時間潰すことにしました。

ところが近隣検索してみたところ、この崇禅寺のある川内
町の谷戸にはあまり寺社がない( ´・ω・`) まず神社は赤城神社・諏訪神社・摩多利神社がありましたが全て祠レベルだったので行っても仕方なかろうとスルー(^^;
(マッタリ神社だけは珍しいのでちょっと興味あったけどw)
お寺は崇禅寺の他に二寺あり、一つは受印可な有人寺だったので9時を待つことにして、まず無住寺のこのお寺から攻めてみることにしました。

ところがまぁ・・・ここはご覧のように本堂と重文の石幢が一つあるだけでほとんど時間潰しにもならなかった(^^;

崇禅寺と同じく、法然上人の弟子の智明坊による開基で、本尊の千手観音は、なんと執権北条時頼から送られたものとのこと! もっとも桐生仏教会のHPには「この伝承は怪しい」みたいなことが書いてあったw
一応、本尊の千手観音は秘仏らしく、毎年1月と8月の17日にしか御開帳されないらしい・・・残念!来るのが10日早かったか( ´-ω-)
もっともここは開帳日でも御朱印対応はなさそうですが・・・

千手寺(群馬県)

お寺より約100mくらい手前に評注

千手寺(群馬県)

地味な本堂が一つだけ(^^;

千手寺(群馬県)

額もすでに落ちて縁側に置かれてる

千手寺(群馬県)

本堂以外は屋根で保護された石塔が一つ

千手寺(群馬県)

一応、市指定の重要文化財だそうです

千手寺(群馬県)

六地蔵はわかるけど、阿弥陀如来はどこに彫られてるのかわからず

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たかく
2019年10月06日(日)
133投稿

不在でした。
当山本尊千手観世音菩薩は開帳仏にて例年1月17日が御縁日に依り当日開帳し子年生の人の御守仏として信仰を集めて居ます。
 又寺境内には市指定重要文化財に指定された七面庚申塔皆々様の御参詣をおまち申し上げて居ります。本塔は天文17年(1548年)造立で有ります。
 伝承 最明寺之禅門、寛元之頃知明之草庵へ千手観音一体被送之。則運慶之正作也。小倉郷長峰という処に建立小堂ヲ而尊崇之。後東小倉千手寺之本尊に安置する是也。
 この伝承をみるに「最明寺之禅門寛元之頃」といえば北条寺領を指している。時の執権時頼が何故智明坊の草庵へ観音像を送ったのかわからない。ただ此の辺が、今の崇禅寺からみると東約一町程にあたるとすれば、はじめ智明坊が草庵をかまえた地に多少の縁故がありはしないかという気がするが、崇禅寺の旧跡は実はもっと南にあったというからよくわからない。
 何れにしても薗田氏にもせよ園田氏にもせよ、智明坊の出身の一族だから無縁では決してない。けれども現在の千手観音像がこの伝承の通りであると主張するには根拠はうすい。何故とならば、此の文の通りだとすれば運慶の作か、そうでなくても鎌倉中期以前の本尊でなくてはならないが、この観音菩薩像は戦国末期か慶長前後の作風を伝えているもののようである。
 したがって伝説はとも角として、現在の本尊が安置され一ケ寺の形をとったのは、戦国末期か慶長前後であったと推測ができるのである。しかも寺自体でも寛永開基をとなえて居り、口碑でも薗田成綱説があるのであるから、此の寺が千手寺として発足したのは戦国末期から寛永の頃であったとするのが事実に近いであろう。

千手寺の本殿
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千手寺の基本情報

住所群馬県桐生市川内町1-331
行き方
アクセスを詳しく見る
名称千手寺
読み方せんじゅじ
御朱印なし
電話番号0277-65-9513
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttp://www.kiributsu.jp/hp/kawauchi/senjyuji/senjyuji.html

詳細情報

ご本尊千手観世音菩薩
山号慈雲山
宗旨・宗派臨済宗妙心寺派
創建時代不詳
開山・開基不詳(伝・智明坊)
文化財

千手寺石幢(桐生市指定重要文化財)

ご由緒

(桐生仏教会HPより)
当山本尊千手観世音菩薩は開帳仏にて例年1月17日が御縁日に依り当日開帳し子年生の人の御守仏として信仰を集めています。
まだ境内には市指定重要文化財に指定された七面庚申塔。
皆々様の御参詣をおまち申し上げて居ります。本塔は天文17年(1548年)造立で有ります。

伝承 最明寺之禅門、寛元之頃知明之草庵へ千手観音一体被送之。則運慶之正作也。小倉郷長峰という処に建立小堂ヲ而尊崇之。後東小倉千手寺之本尊に安置する是也。

この伝承をみるに「最明寺之禅門寛元之頃」といえば北条寺領を指している。時の執権時頼がなぜ智明坊の草庵へ観音像を送ったのかわからない。
ただこの辺が、今の崇禅寺からみると東約一町程にあたるとすれば、はじめ智明坊が草庵をかまえた地に多少の縁故がありはしないかという気がするが、崇禅寺の旧跡は実はもっと南にあったというからよくわからない。
いずれにしても薗田氏にもせよ園田氏にもせよ、智明坊の出身の一族だから無縁では決してない。けれども現在の千手観音像がこの伝承の通りであると主張するには根拠はうすい。何故とならば、此の文の通りだとすれば運慶の作か、そうでなくても鎌倉中期以前の本尊でなくてはならないが、この観音菩薩像は戦国末期か慶長前後の作風を伝えているもののようである。
したがって伝説はともかくとして、現在の本尊が安置され一ケ寺の形をとったのは、戦国末期か慶長前後であったと推測ができるのである。しかも寺自体でも寛永開基をとなえて居り、口碑でも薗田成綱説があるのであるから、此の寺が千手寺として発足したのは戦国末期から寛永の頃であったとするのが事実に近いであろう。

体験仏像

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