ちょうこくじ(しらいわかんのん)
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長谷寺(白岩観音)ではいただけません
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長谷寺(白岩観音)のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年09月09日(木)
参拝:2020年8月吉日
長谷寺(ちょうこくじ)は、群馬県高崎市にある金峰山修験本宗の寺院。山号は白岩山(しろいわさん)。本尊は十一面観世音菩薩。坂東三十三観音霊場15番札所。別名「白岩観音」。
寺伝によると、聖武天皇の勅願により徳道上人が伽藍を整備し、役行者が柳の霊木で十一面観音菩薩像を刻んだのが始まり。平安時代の851年に在原業平が堂宇を修復し、最澄や空海が当寺を訪れたとも伝えられる。鎌倉時代には、鎌倉将軍家、新田氏、上杉氏の信仰を得た。戦国時代の1566年、武田信玄の箕輪城攻めのとき類焼したが、1580年に息子の武田勝頼が観音堂を再建した。古くから修験道の寺であったが、明治時代に一時天台宗に属し、昭和戦後に現在の宗派となった。
当寺は、JR信越本線・群馬八幡駅の北北西7kmのアップダウンのある県道137号線沿いにある。伽藍が並ぶ境内は、仁王門、本堂、寺務所のみで広くはない。参拝時は残念ながら、本堂の再建工事中で、仁王門しか見られる建物がなかった。
今回は、坂東三十三観音霊場の札所として参拝することに。参拝時は週末の午前中、自分たち以外にも、家族連れと坂東札所巡りと思しき夫婦がいた。
寺伝によると、聖武天皇の勅願により徳道上人が伽藍を整備し、役行者が柳の霊木で十一面観音菩薩像を刻んだのが始まり。平安時代の851年に在原業平が堂宇を修復し、最澄や空海が当寺を訪れたとも伝えられる。鎌倉時代には、鎌倉将軍家、新田氏、上杉氏の信仰を得た。戦国時代の1566年、武田信玄の箕輪城攻めのとき類焼したが、1580年に息子の武田勝頼が観音堂を再建した。古くから修験道の寺であったが、明治時代に一時天台宗に属し、昭和戦後に現在の宗派となった。
当寺は、JR信越本線・群馬八幡駅の北北西7kmのアップダウンのある県道137号線沿いにある。伽藍が並ぶ境内は、仁王門、本堂、寺務所のみで広くはない。参拝時は残念ながら、本堂の再建工事中で、仁王門しか見られる建物がなかった。
今回は、坂東三十三観音霊場の札所として参拝することに。参拝時は週末の午前中、自分たち以外にも、家族連れと坂東札所巡りと思しき夫婦がいた。
境内全景。県道に沿って横長の境内。写真左端は<寺号標>、写真右端の建物は<寺務所>。塀や生垣がないので開放的な印象。
境内に入り、参道から前方を望む。
まず目に入って来るのが<仁王門>。
参道左側の<水屋>。
仁王門の両側に、壁など視界を制限するものがないので、非常に印象に残る。
仁王門の、山号を記した<扁額>と<仁王像>。
仁王門をくぐると左側にある<鐘楼>。自由に撞くことができる。
参道正面を見るが、前方には建物が何もないように見える...?
写真左側の建物は寺務所。御朱印はこちら。
写真左側の建物は寺務所。御朱印はこちら。
やはり、本堂があるべき場所になくて、建物の基礎と<十一面観世音菩薩>と書かれた立札だけが立っている。お寺の方に話を伺ったところ、本堂の老朽化が激しかったため、現在建て直し中とのこと。残念...( ;∀;)
※2020年8月現在。
※2020年8月現在。
御朱印を拝受し、参道を戻って行く。仁王門近くに立つ白御影石の<不動明王像>。
仁王門が印象的なだけに、本堂、本尊が見られなかったのは残念。
仁王門の脇に立つ仏塔や石碑。
境内入口まで戻る。坂東三十三巡りという面では御朱印を拝受できてよかったが、何かをを逃したような感覚。もう一度、参拝に来た方が良いのかな...
すてき
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惣一郎1269投稿
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