ほんどじんじゃ
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本土神社ではいただけません
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本土神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2023年08月19日(土)
参拝:2023年8月吉日
多治見金幣社三社の一つ。
本土神社という少し変わった社名に惹かれてお参りさせていただきました。
主祭神 猿田彦命
配祀神 庭津火命
鳥居をくぐると参道の両脇には緑が多く、境内全体にとても良い優しい気が満ちていました。
拝殿前に掲げられた由緒略記には、次のように記載がありました。
当本土神社にお祭りする猿田彦の神は今から六百有余年前既にこの地に鎮座され、私共の遠い祖先の代からの守り神として今日に伝わる天孫瓊々杵尊の降臨に際し、高千穂の峯に御先導申上げた神として有名であります。
御神徳については、古くから霊験あらたかな土地の守護神として崇敬され当神社の社名もこれに由来されるものといわれております。 また災難や迷いを除き開運とみちびきの神としても広く知られております。
<神徳縁起>
当社の創立は詳らかでないが、現存する最も古い棟札に「奉修覆本土大明神御殿一宇元徳二年」(AD1330年)とある。
それより300年程前平安時代後期、当地は伊勢神宮領の池田御厨の内であり、御厨の住民は貢物献納に伊勢路の往来に当たり、神宮に縁の深い猿田彦大神の御分霊を勧請奉斎し当地域の守護神として子孫の繁栄を祈願したと伝えられている。
鎌倉時代末期、美濃国守護土岐頼貞この地に居館を構えるや、鬼門鎮護の神・武門守護の神と仰ぎ、社殿改築の勘進、祭礼奉行など一族を率いて崇敬し社頭殷賑を極む。
土岐氏が衰亡し、時代が推移して江戸時代になってからは武将の崇敬を失うも、勧請鎮祭に縁の深い御厨の後裔である氏子崇敬者は、地主神・方除神・厄除招福神としての信仰心変わることなく、社殿の修復・祭礼の執行が一貫して奉仕されて今日に至り、神徳顕著なり。
本土神社という少し変わった社名に惹かれてお参りさせていただきました。
主祭神 猿田彦命
配祀神 庭津火命
鳥居をくぐると参道の両脇には緑が多く、境内全体にとても良い優しい気が満ちていました。
拝殿前に掲げられた由緒略記には、次のように記載がありました。
当本土神社にお祭りする猿田彦の神は今から六百有余年前既にこの地に鎮座され、私共の遠い祖先の代からの守り神として今日に伝わる天孫瓊々杵尊の降臨に際し、高千穂の峯に御先導申上げた神として有名であります。
御神徳については、古くから霊験あらたかな土地の守護神として崇敬され当神社の社名もこれに由来されるものといわれております。 また災難や迷いを除き開運とみちびきの神としても広く知られております。
<神徳縁起>
当社の創立は詳らかでないが、現存する最も古い棟札に「奉修覆本土大明神御殿一宇元徳二年」(AD1330年)とある。
それより300年程前平安時代後期、当地は伊勢神宮領の池田御厨の内であり、御厨の住民は貢物献納に伊勢路の往来に当たり、神宮に縁の深い猿田彦大神の御分霊を勧請奉斎し当地域の守護神として子孫の繁栄を祈願したと伝えられている。
鎌倉時代末期、美濃国守護土岐頼貞この地に居館を構えるや、鬼門鎮護の神・武門守護の神と仰ぎ、社殿改築の勘進、祭礼奉行など一族を率いて崇敬し社頭殷賑を極む。
土岐氏が衰亡し、時代が推移して江戸時代になってからは武将の崇敬を失うも、勧請鎮祭に縁の深い御厨の後裔である氏子崇敬者は、地主神・方除神・厄除招福神としての信仰心変わることなく、社殿の修復・祭礼の執行が一貫して奉仕されて今日に至り、神徳顕著なり。
天岩戸神社御神木招霊の木
本殿西側の末社 左から
金比羅神社
出雲神社
荒神神社
稲荷神社
北野神社
金比羅神社
出雲神社
荒神神社
稲荷神社
北野神社
本殿
拝殿横のツクバネガシ
樹齢約300年だそうです
樹齢約300年だそうです
宝筐印塔
開運厄除け茶をいただいてまいりました。
ティーバッグの紅茶なのですが、茶葉と一緒に金平糖が入っています。
ティーバッグの紅茶なのですが、茶葉と一緒に金平糖が入っています。
すてき
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