ふじしまじんじゃ
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楽しみ方藤島神社(贈正一位新田義貞公之大宮)の御由緒・歴史
| ご祭神 | 御祭神 贈正一位源朝臣義貞公(新田義貞公=新田大明神) 配祀神 贈從三位源朝臣義宗卿(新田義宗卿) 贈從三位源朝臣義助卿(脇屋義助卿) 贈從三位源朝臣義顯卿(新田義顯卿) 贈從三位源朝臣義興卿(新田義興卿) 一族郎党殉難將士 攝 社 野神神社(勾當内侍) 境内社 秋葉神社(三尺坊大権現社) 新田神社(新田大明神社) 歳德神社(祇園牛頭天王社) | |
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| ご神体 | 贈正一位新田義貞公神靈 | |
| 創建時代 | 創祠・明治3年(1870)、別格官幣社列格創建・明治9年(1876) | |
| 創始者 | 明治天皇 | |
| ご由緒 | 新田家は清和天皇を祖とする清和源氏の流れで、新田義貞公は八幡太郎義家朝臣から直系10代目の子孫に当たります。 ◎清和源氏 新田家略系図(付足利家)
義國長男○義重―義兼—義房―政義―政氏―基氏—朝氏―義貞—義宗…
代々関東の上野(こうずけ)国(群馬県)の新田郡に住み新田氏を称し、義貞公は新田家第七代・朝氏の嫡男として生まれました。 後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうと二度目の計画をされた「元弘の変」(1331)の後、元弘3年(1333)密かに朝廷より大塔宮護良親王を通じて「綸旨」(天皇の命令書)を受けて、5月8日に地元の生品神社で一族とともに旗揚げされました。しかしその数は僅か150騎。鎌倉への街道を進んでいる間に、近隣の源氏同族や北條氏に反旗を翻す勢力、また足利勢力の合流があり、最後は20万騎に及んだと『太平記』には記されています。 自然の要塞であった鎌倉を落とすことは容易ではありませんでしたが、「稲村ケ崎の故事」もあり、遂に22日執権北條高時の鎌倉幕府を滅しました。 藤島神社では、この日を記念しまして毎年「記念祭」(きねんさい=大祭)を斎行いたしております。 鎌倉幕府が滅亡してから後、いわゆる後醍醐天皇の建武中興の政治が始まりますが、この時足利利尊氏が天皇に謀叛を起し、南北朝の動乱の時代となりました. 義貞公は「盡忠報国」の精神を以て後醍醐天皇に尽くされ、楠木正成公が湊川で戦死された後も、形勢不利の中を延元元年(1336)、天皇の皇太子・恆良親王(神器を有し、越前では即位したという説もあります)、尊良親王を奉じて敦賀の金ケ崎に籠城されました。翌年3月金ケ崎落城と共に、杣山へ、更に延元3年(1338)足利軍と福井平野で奮闘中、閏(うるう)7月2日(1338年8月25日)「藤島の戦い」(灯明寺畷の戦い)で壮烈なる戦死を遂げられたのであります。 御年38歳でありました。この閏7月2日を太陽暦に換算しますと8月25日に当たりますので、創建後の明治10年よりこの日を藤島神社の例大祭と定め、毎年厳粛なる祭典が盛大に行われております。 この新田義貞公戦死の地から明暦年間(1655~57)、義貞公の兜が発見されましたので、福井藩松平光通候は萬治3年(1660)そこに「新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建立されました。これが国の史蹟として指定されている「史蹟灯明寺畷」(新田義貞戰歿伝説地=新田塚)であります。 明治初年、この新田義貞公の忠誠に対し神として祀る運動が起こり、明治9年11月「別格官幣社藤島神社」が御創建されました。 その後、変遷がありまして同14年同郡牧ノ島に社殿を移しましたがここもまた水害が甚だしいため同34年5月、足羽山の現在地へ奉遷されたのが今の藤島神社であります。 御創建以来、御皇室をはじめ各宮家の御崇敬篤く、戦災・震災と二度の災害を被りましたが、全国各地の崇敬者の方々のご奉賛により、昭和31年御創立80周年大祭には總檜造りの拝殿が、昭和50年の百年大祭には宝物収納庫を兼ねた参集殿が、義貞公650年大祭には神符授与所等諸殿の復興がなされ、平成20年には御殉節670年大祭を迎えて平成の大修理及び境内整備が行われて現在の社域となっております。 福井市を一望する緑に囲まれた杜は、福井県はおろか全国より詣でる人々が絶えないことは御神慮の広大無限さに只々有難く真に恐懼に堪えません。 ■ 神紋 十六葉菊花 五七桐
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