だいほうじ|真言宗豊山派|菅生山(すごうざん)
大宝寺のお参りの記録一覧
1泊2日四国八十八か所巡り。1日目の4寺院目です。
明石寺からはずいぶん離れていて 車で小一時間ほどかかります。
街中を通り抜け 再び山へ入っていきます。駐車場はお寺から少し離れていて 車を停めてから歩きます。途中の道は参道になるので お土産屋さんなどが3軒ほどありましが ほぼ閉まっていました。
静かな山道を歩き 石柱の所から脇道に入るとまず地蔵堂があり すぐ仁王門に至ります。
仁王門をくぐってまだ山道を上がると 手水 本堂に続く石段があります。
石段を上がると 鐘楼・観音堂・本堂・大師堂・興教大師堂とあります。
建物は比較的新しいもののようですが 山寺特有の木の傷みがあり 特に本堂の雰囲気は素敵でした。
山寺 好きです。
拝観者は多くなく 静かにお参りできました。
山号は菅生山 院号は大覚院 宗旨宗派は真言宗豊山派 ご本尊は十一面観世音菩薩
創建年は(伝)大宝元年(701年) 開基は(伝)明神右京・隼人です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌:今の世は大悲(だいひ)のめぐみ菅生山 ついには弥陀の誓いをぞまつ
でした。
由緒については
寺伝によれば 百済から来た聖僧が携えて来た十一面観世音菩薩を山中に安置したのが始まりである。
大宝元年に安芸から来た明神右京 隼人の兄弟の猟師がその観音像を見つけて草庵を建てて祀ったといい 奏上を受けた文武天皇の勅命によって寺院が建立され 元号に合わせて寺号を定めたといわれている。
弘仁13年(822年)に空海(弘法大師)が来錫 この際に天台宗から真言宗に改宗されたという。
仁平2年(1152年)に失火により寺は焼失 保元元年(1156年) 後白河天皇の勅使が天皇の脳の病気平癒を祈願したところ病が治ったため 天皇は妹宮を住職として下向させ「菅生山」の勅額を送り 勅願寺として七堂伽藍を有する寺院として再興されたという。
とありました。
駐車場から歩きます
少しだけ涼しいです
石柱から脇道へ
地蔵堂
仁王門
金剛力士は室町時代作
木組みが美しい
仁王門をくぐっても山道
手水は龍
水子地蔵尊
石柱
本堂に続く石段
鐘楼
掘出観音堂
本堂
扁額
内陣
平和の鐘
大師堂
観音様
御影堂の扁額
内陣
興教大師堂
法事中でした
納経所
仁王門の下に
これ 仏様?
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
44番 大寶寺
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
44番 大寶寺
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
44番 大寶寺
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
44番 大寶寺
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
44番 大寶寺
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
44番 大寶寺
【菅生山(すごうざん)大覚院(だいかくいん)大寶寺(だいほうじ)】
本尊:十一面観世音菩薩
宗派:真言宗豊山派
開基:明神右京・隼人
大寶寺の縁起は大和朝廷時代と古く、百済から渡来した僧が、十一面観音像をこの山中に安置したのがはじまりで、飛鳥時代になって701(大宝元)年、安芸(広島)からきた明神右京・隼人という兄弟の狩人が、十一面観音像を見つけ、庵に祀った際、ときの第42代 文武天皇(在位697-707)の勅命により寺院が建立され、元号にちなんで「大寶寺」と名付けられた。弘法大師(774-835)がこの地を訪れたのは、822(弘仁13)年で、密教を修法して、四国霊場に定め、これを機に天台宗だった宗派を真言宗に改めた。
その後は、天正の兵火をはじめ全焼の憂き目に何度も遭いながら、時の藩主や人々の寄進で再建されている。
【44_T.Hamada's view】
本堂
【44_大わらじ】
お遍路もこのお寺で丁度半分。中間のヤマ場となるため、山門には88ヶ所最大級のおおわらじが奉納されている。(四国霊場開創1200年記念絵はがき)
【44_大わらじ】
【44_本堂】
【44_大師堂】
【44_仁王門】
【44_仁王阿形像】
【44_仁王吽形像】
【44_龍の手水舎】
【44_掘出観音堂】
1934(昭和9)年に大寶寺の山中から掘り出された金銅製の観音像をお祀りしている。身体から病気や悪霊を掘り起こしてくれる有り難い仏様といわれ、信仰されている。
【44_十一面観世音菩薩】
【44_子宝地蔵】
四国八十八ヶ所霊場第44番札所 水どう・珠玉の寺紹介より「ど〜ん…大砲だねぇ」
「中札所」四国霊場八十八ヶ所のちょうど半分
石製の蛇・蛙・ナメクジの三すくみ
十一面観音菩薩立像
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