やさかじ
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八坂寺ではいただけません
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八坂寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年08月13日(火)
参拝:2024年7月吉日
1泊2日四国八十八か所巡り。1日目の6寺院目です。
浄瑠璃寺から歩いてもすぐの場所にあります。
今まで四国で50ほど巡ってきましたが その中で最も新しいと思ったお寺です。
山門から見ても分かるように わりと最近修復されているようです。
本堂もコンクリート造りで内陣もとてもきれいです。
大師堂はやや古い建物ですが やはりきれいで 内陣もきれいです。
本堂と大師堂の間に 閻魔堂がありました。
極楽の途と地獄の途 2つの道がありました。
写真でも分かると思いますが 内側に地獄絵と極楽絵が描かれており 足元の石がとげとげのものと丸まったもので区別されていました。
裸足で歩いたら 違いを感じられるわけです。
御朱印を拝受する時に ご住職と少しお話をさせていただけました。(どこから来たとか)
お寺の裏手には 広~い墓所 いや霊園がありました。
檀家さんがとっても多いことがすぐに分かります。
山号は熊野山 院号は妙見院 宗旨宗派は古義真言宗醍醐派 ご本尊は阿弥陀如来 創建年は(伝)大宝元年(701年) 開基は(伝)役行者、文武天皇(勅願)です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん あみりた ていぜい からうん
ご詠歌:花を見て歌詠む人は八坂寺 三仏(さんぶつ)じょうの縁(えん)とこそきけ
でした。
由緒については
寺伝によれば役行者によって開基され 大宝元年(701年)に 河野玉澄の兄である伊予の国司・越智玉興が 文武天皇の勅願を受けて堂宇を建立したという。
このとき8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名になったといわれ ますます栄える彌榮(八坂)にも由来している。
一時荒廃するが 弘仁6年(815年)に来錫した空海(弘法大師)が再興したとされる。
本尊の阿弥陀如来は源信(恵心僧都 942 – 1017)の作と伝えられる(現本尊は鎌倉時代後期の作)。
とありました。
浄瑠璃寺から歩いてもすぐの場所にあります。
今まで四国で50ほど巡ってきましたが その中で最も新しいと思ったお寺です。
山門から見ても分かるように わりと最近修復されているようです。
本堂もコンクリート造りで内陣もとてもきれいです。
大師堂はやや古い建物ですが やはりきれいで 内陣もきれいです。
本堂と大師堂の間に 閻魔堂がありました。
極楽の途と地獄の途 2つの道がありました。
写真でも分かると思いますが 内側に地獄絵と極楽絵が描かれており 足元の石がとげとげのものと丸まったもので区別されていました。
裸足で歩いたら 違いを感じられるわけです。
御朱印を拝受する時に ご住職と少しお話をさせていただけました。(どこから来たとか)
お寺の裏手には 広~い墓所 いや霊園がありました。
檀家さんがとっても多いことがすぐに分かります。
山号は熊野山 院号は妙見院 宗旨宗派は古義真言宗醍醐派 ご本尊は阿弥陀如来 創建年は(伝)大宝元年(701年) 開基は(伝)役行者、文武天皇(勅願)です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん あみりた ていぜい からうん
ご詠歌:花を見て歌詠む人は八坂寺 三仏(さんぶつ)じょうの縁(えん)とこそきけ
でした。
由緒については
寺伝によれば役行者によって開基され 大宝元年(701年)に 河野玉澄の兄である伊予の国司・越智玉興が 文武天皇の勅願を受けて堂宇を建立したという。
このとき8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名になったといわれ ますます栄える彌榮(八坂)にも由来している。
一時荒廃するが 弘仁6年(815年)に来錫した空海(弘法大師)が再興したとされる。
本尊の阿弥陀如来は源信(恵心僧都 942 – 1017)の作と伝えられる(現本尊は鎌倉時代後期の作)。
とありました。
山門
天井絵
納経所
手水
鐘楼
由緒書
観音様
句碑
説明
修行大師像
本堂
内陣
新しくてきれいです
香炉
大師堂
内陣
閻魔堂
地獄の途
地獄絵図
足元にはとげとげした石が敷き詰められている
極楽の途
六道 人道
極楽絵図
敷き詰められた石が丸くなりました
通行手形 もらい忘れました
開山神變大菩薩
駐車場にいやさか不動尊
すてき
投稿者のプロフィール
くるくるきよせん2060投稿
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