とうしょうじそうごれいどう|真言宗豊山派|鳴鐘山
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楽しみ方東勝寺宗吾霊堂のお参りの記録一覧
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宗派: 真言宗豊山派
創建年: 不明 (桓武天皇の時代)
山号: 鳴鐘山
本尊: 宗吾尊霊
本名 木内惣五郎
江戸時代前期下総国佐倉藩領の義民
で佐倉惣五郎、宗吾とされる
当時惣五郎らが住んでた公津村は、
凶作が続いて村人は、年貢が払えず
逃げ出す者、餓死する者も多かった
佐倉藩主は、様々な税を菓し生活を圧迫させた
惣五郎らは藩に訴えでるが却下され
江戸に上がり老中、久世大和守に
訴状をだしたが却下
将軍家綱への直訴しかなく単身で寛永寺に
赴き家綱に直訴無事処理されたが
直訴は、ご法度
堀田正信により惣五郎の4人の子供は、全員打ち首に
惣五朗と妻の目の前で全員打ち首となり
惣五朗と妻は、磔刑になった








東勝寺は千葉県成田市にある真言宗豊山派の寺院。山号は鳴鐘山、院号は医王院。江戸前期の義民・木内惣五郎(=佐倉宗吾)の霊が祀られており、通称「宗吾霊堂」とも呼ばれる。あじさいの名所としても知られている。
佐倉宗吾の故事は、下総国佐倉藩の重税に苦しむ農民の負担軽減を、宗吾が将軍に直訴(=死罪)することで実現し、代わりに処刑されたというもの。失政の佐倉藩主堀田家はその後宗吾の祟りを恐れ、神社で祀り、法号、院号を送り、子孫に供養田を与えるなどした。江戸後期に入り、歌舞伎や浪花節での演目「佐倉義民伝」として広く知れ渡ることとなった。当寺にはその佐倉宗吾が祀られている。
本寺の開創は不詳。寺伝によると、桓武天皇の勅命により房総を平定した坂上田村麻呂が戦没者供養のために創建。江戸前期、1662年に澄祐(ちょうゆう)が佐倉宗吾の遺骸を埋葬したことにより再興、明治期には宗吾を祀る数々の堂宇が建立されたが火災で焼失、1921年に現在地に再建。なお、同じ成田市には成田山新勝寺があるが、東勝寺の方が古く、東勝寺よりも新しいので新勝寺と名付けられたとのこと。
当寺は、京成線・宗吾参道駅から道のり1km。車だと東関東自動車道・佐倉ICから下道10km。宗吾霊堂に突き当たる県道137号線はT字路になっており、かつての宗吾参道への参道であったことが分かる。敷地は非常に広く、境内には大きな堂宇が建ち並んでいることから、江戸後期以降、庶民からの篤い信仰があったことがうかがえる。特に歌舞伎界からの奉納が顕著であったとのこと。(入口の石碑に中村吉右衛門、市川九蔵の名が見える)
参拝時は週末の昼ごろ、コロナ対応のため2月20日(土)まで祈祷、授与含めすべて中止となっていたが、参拝者はそれなりにいて、広い境内を思い思いに回っていた。
※自分は千葉県出身なので<宗吾霊堂>の名称はは30年前から知っていたが、興味がなかったので実物を見たことがなかった。今回も、狙って参拝したわけではなく、お目当ての神社に行く途中でT字路の突き当りに発見したため、思わず参拝。予想以上に過去の隆盛を感じる大きな寺院で驚いた。成田山参詣電車の京成電鉄がわざわざ成田駅の近くに別途駅を作ったことにも納得。

境内入口。立派な門ではないのが意外。ただ入口両端に立つ石柱には歌舞伎役者の名前が入り、後ろ側には<新橋演舞場>の文字があった。

境内入ってまず目につくのは、仁王門まで伸びる参道の左側に立ち並ぶ売店。なんだか昭和時代にタイムスリップした気分になり心地よい。お年を召した店の人が、同世代の参拝者と楽しそうに話していた。
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