とうしょうじそうごれいどう|真言宗豊山派|鳴鐘山
東勝寺宗吾霊堂のお参りの記録一覧
宗派: 真言宗豊山派
創建年: 不明 (桓武天皇の時代)
山号: 鳴鐘山
本尊: 宗吾尊霊
本名 木内惣五郎
江戸時代前期下総国佐倉藩領の義民
で佐倉惣五郎、宗吾とされる
当時惣五郎らが住んでた公津村は、
凶作が続いて村人は、年貢が払えず
逃げ出す者、餓死する者も多かった
佐倉藩主は、様々な税を菓し生活を圧迫させた
惣五郎らは藩に訴えでるが却下され
江戸に上がり老中、久世大和守に
訴状をだしたが却下
将軍家綱への直訴しかなく単身で寛永寺に
赴き家綱に直訴無事処理されたが
直訴は、ご法度
堀田正信により惣五郎の4人の子供は、全員打ち首に
惣五朗と妻の目の前で全員打ち首となり
惣五朗と妻は、磔刑になった
惣五郎と子供4人が眠る墓
大山門
薬師堂
宗吾殿
奥の院
聖天堂
本堂
本堂
京成線の駅名にある宗吾参道、子供の頃に何で「参道?」不思議に思っていて、日本史を学ぶようになり宗吾翁のお話を聞いてからずっとお詣りしてみたいと思っていました。
9月のお祭りの準備をされていて、地元に大切にされている事が良くわかりました。
通常御朱印
書き置きのみの大聖歓喜天さまの御朱印
書き置きのみの地蔵尊の御朱印
神社やお寺を巡るようになってから、船橋の大神宮下駅や、東京の九品仏駅など、気になる駅に目が止まるようになりました。
その中で今回は千葉県成田の宗吾参道駅に行ってみました。
宗吾参道駅を降りて少し歩くと、目印のように山門がありました。
駅から徒歩15分程でした。
中に入ると、いくつかお店が並んでます。
大山門
結構広いです
ご本堂アップ
釣鐘
修行するところのようです。
お地蔵さん
薬師堂
宗吾御一代記館。
開いてませんでした。
書き置きです。
成田コミュニティバス北須賀ルートを使用しました。(Suica使用可能)
参道の土産屋は2店開いていました。
江戸時代に民衆を守るために活躍した宗吾様を祀るお寺です。
山門
仁王像(山門右側)
仁王像(山門左側)
本堂
本堂
狛犬(本堂右側)
狛犬(本堂左側)
薬師堂
境内
麻賀多神社に参拝に行く時に
いつも素通りしていましたが
勇敢な義民の話を知り
参拝したく思い
はじめて境内に入りました。
桜が満開で美しい時期に
参拝できました。
そして奥ノ院の案内版を読んでいると
十一面観音…菊理媛尊も…
(他に行きたいところの候補はあったのに石川県に行ったのは。。。)
そして…この後
台方の麻賀多神社へ行った後に
船形の麻賀多神社奥宮へ行く途中
なんとなく足が向き
あるところに立ち寄る事になり
ただの偶然ではない一連の流れを
自覚する出来事がありました。
神仏の事
まだまだ何もわかってない私。
この中に十一面観音が…
沢山の仏様の中で
何故十一面観音様との繋がりなのだろう。
導かれてます。
私を動かしているのは。。。
十一面観音の真言
画像を撮らせていただきました。
東勝寺は千葉県成田市にある真言宗豊山派の寺院。山号は鳴鐘山、院号は医王院。江戸前期の義民・木内惣五郎(=佐倉宗吾)の霊が祀られており、通称「宗吾霊堂」とも呼ばれる。あじさいの名所としても知られている。
佐倉宗吾の故事は、下総国佐倉藩の重税に苦しむ農民の負担軽減を、宗吾が将軍に直訴(=死罪)することで実現し、代わりに処刑されたというもの。失政の佐倉藩主堀田家はその後宗吾の祟りを恐れ、神社で祀り、法号、院号を送り、子孫に供養田を与えるなどした。江戸後期に入り、歌舞伎や浪花節での演目「佐倉義民伝」として広く知れ渡ることとなった。当寺にはその佐倉宗吾が祀られている。
本寺の開創は不詳。寺伝によると、桓武天皇の勅命により房総を平定した坂上田村麻呂が戦没者供養のために創建。江戸前期、1662年に澄祐(ちょうゆう)が佐倉宗吾の遺骸を埋葬したことにより再興、明治期には宗吾を祀る数々の堂宇が建立されたが火災で焼失、1921年に現在地に再建。なお、同じ成田市には成田山新勝寺があるが、東勝寺の方が古く、東勝寺よりも新しいので新勝寺と名付けられたとのこと。
当寺は、京成線・宗吾参道駅から道のり1km。車だと東関東自動車道・佐倉ICから下道10km。宗吾霊堂に突き当たる県道137号線はT字路になっており、かつての宗吾参道への参道であったことが分かる。敷地は非常に広く、境内には大きな堂宇が建ち並んでいることから、江戸後期以降、庶民からの篤い信仰があったことがうかがえる。特に歌舞伎界からの奉納が顕著であったとのこと。(入口の石碑に中村吉右衛門、市川九蔵の名が見える)
参拝時は週末の昼ごろ、コロナ対応のため2月20日(土)まで祈祷、授与含めすべて中止となっていたが、参拝者はそれなりにいて、広い境内を思い思いに回っていた。
※自分は千葉県出身なので<宗吾霊堂>の名称はは30年前から知っていたが、興味がなかったので実物を見たことがなかった。今回も、狙って参拝したわけではなく、お目当ての神社に行く途中でT字路の突き当りに発見したため、思わず参拝。予想以上に過去の隆盛を感じる大きな寺院で驚いた。成田山参詣電車の京成電鉄がわざわざ成田駅の近くに別途駅を作ったことにも納得。
境内入口。立派な門ではないのが意外。ただ入口両端に立つ石柱には歌舞伎役者の名前が入り、後ろ側には<新橋演舞場>の文字があった。
境内入ってまず目につくのは、仁王門まで伸びる参道の左側に立ち並ぶ売店。なんだか昭和時代にタイムスリップした気分になり心地よい。お年を召した店の人が、同世代の参拝者と楽しそうに話していた。
境内入ってすぐ右手にある<手水舎>。
手水舎の隣にさっそく<宗吾御廟>。佐倉宗吾は1653年に将軍直訴の罪で公津ヶ原刑場で4人の子とともに処刑された。
大きく立派な<仁王門(大山門)>。1978年建立。内部の仁王像は、人間国宝・香取正彦作。鋳造金箔仕上げ、日本で唯一の金色仁王尊とのこと。楼上の安置仏は聖観世音菩薩像で高村光雲作。作者たちが半端なく豪華!
仁王門をくぐって進んだ左手にある<授与所>。コロナ緊急事態宣言で祈祷、御朱印、すべて中止。。。
仁王門をくぐって進んだ右手、池の向こうにある<鐘楼堂>。1952年建立。梵鐘鋳匠は仁王門と同じ人間国宝・香取正彦氏。全国百鐘の一つだそう。
本尊に佐倉宗吾を祀る<大本堂>。1921年建立。総銅瓦葺、十間四面総欅造り。
大本堂正面と扁額。
本堂手前右手にある<薬師堂>。銅板葺入母屋造、正面中央に千鳥破風を付けたお堂、薬師瑠璃光如来を祀る。元は佐倉宗吾とともに直訴し、佐倉領を追放となった五人の名主を祀った<五霊堂>。
薬師堂正面と扁額。
薬師堂の右隣にある<聖天堂>。東勝寺創建の坂上田村麻呂の持仏と伝わる<大聖 歓喜天尊像>を祀る。
大本堂の右側にある<宗吾殿>。1954年に東京都台東区寿三丁目に建立された宗吾の供養堂が、2017年地区再開発に遭い当地に移築。
本堂の右奥にある<奥之院>。2002年建立。
本堂の左奥にある<御一代記館>。有料ゾーン。
本堂の左奥にある<宗吾霊宝殿>。本尊佐倉宗吾の遺品、関係文書などを展示。有料ゾーン。
大本堂の手前左手にある<大本坊>。1942年建立。信徒講社の食事、休憩、研修、宿泊に使用。
仁王門近くにある<慈眼閣>。檀家信徒の休憩所、研修所。
私が初めて御朱印巡りをして初めて
頂いた御朱印がこちらの宗吾霊堂です😀
江戸時代初期、4代将軍徳川家綱の時代、今から約360年前
打ち続く凶作と過酷な重税に苦しむ農民たちを救うため、木内惣五郎(佐倉宗吾)ら6人の名主たちが幕府に農民の窮状を訴えました。
しかし、その訴状は受入れられず、木内惣五郎は、当時禁じられていた将軍への直訴を決行。
直訴により、重税が見直され、村々の願いはかなえられました
惣五郎は処刑され42歳と
いう若さでこの世を去る事に
それから100年後、宝暦2年(1752年)、佐倉藩はその失政を悔い、木内惣五郎の名誉を回復し、「宗吾道閑居士」の法号を諡号(しごう)し、以来「宗吾様」と呼ばれるようになりました。
横に店が立ち並び前には
大本堂が見えました
身代わり地蔵尊
大山門(仁王門)
着いたのが16時過ぎなので
閉まってました
御朱印頂けず😓
6年前に生まれて初めて頂い時の
御朱印です😆🎵🎵
今回は、閉まってしまい間に合わずでした
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