しもうさのくにみやま にのみやじんじゃ
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下総国三山 二宮神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年08月23日(月)
参拝:2020年8月吉日
二宮神社は、千葉県船橋市にある神社。式内論社で、下総国二之宮と伝わる。旧社格は郷社。祭神は、建速須佐之男命、櫛稲田比売命、大国主命、藤原時平命、大雀命、誉田別命。別名は「寒川神社」、「三山明神」、「二宮明神」。
社伝によると、平安時代初期の弘仁年間(810年~824年)に嵯峨天皇の勅命により創建した。927年の『延喜式神名帳』には「下総国 千葉郡 寒川神社」と記載がありその論社とされるが、千葉市中央区の「寒川神社」もその論社とされる。その後、いつからか下総国の二之宮と呼ばれるようになり、朝廷からも崇敬を受けたとしている(ただし、旭市の玉崎神社も二宮を称している)。江戸時代前夜の1591年には徳川家康から朱印地10石を与えられている。
当社は、新京成線・薬園台駅の南東2kmの住宅街の中の平地にある。境内の中央が窪地の林になっていて、境内南端の鳥居から入ると、一度階段を下りて窪地を抜けてから階段を上がって社殿に到達するユニークな造りとなっている。境内は広く、社殿は大きく、古木もちらほらあり、古社らしい神聖な雰囲気が境内に漂っている。
今回は、下総国の式内論社ということで参拝することに。参拝時は週末の夕方で、ちょうど社務所が閉まる時間帯であったが、近所住民と思しき人々をちらほら見掛けた。
社伝によると、平安時代初期の弘仁年間(810年~824年)に嵯峨天皇の勅命により創建した。927年の『延喜式神名帳』には「下総国 千葉郡 寒川神社」と記載がありその論社とされるが、千葉市中央区の「寒川神社」もその論社とされる。その後、いつからか下総国の二之宮と呼ばれるようになり、朝廷からも崇敬を受けたとしている(ただし、旭市の玉崎神社も二宮を称している)。江戸時代前夜の1591年には徳川家康から朱印地10石を与えられている。
当社は、新京成線・薬園台駅の南東2kmの住宅街の中の平地にある。境内の中央が窪地の林になっていて、境内南端の鳥居から入ると、一度階段を下りて窪地を抜けてから階段を上がって社殿に到達するユニークな造りとなっている。境内は広く、社殿は大きく、古木もちらほらあり、古社らしい神聖な雰囲気が境内に漂っている。
今回は、下総国の式内論社ということで参拝することに。参拝時は週末の夕方で、ちょうど社務所が閉まる時間帯であったが、近所住民と思しき人々をちらほら見掛けた。
道路の反対側から見た、境内入口の<一の鳥居>と<社号標>。鳥居の先に参道は見えず、代わりにかすかな明かりが見える...なんでかな?
鳥居をくぐると、すぐに階段を下りて<窪地参道>を進み、再び社殿に向かって階段を上がる形になっている。これは珍しい形~♪
木々の包まれ感が良い感じ。とてもきれいに掃き清められている。素晴らしい!
木々の包まれ感が良い感じ。とてもきれいに掃き清められている。素晴らしい!
参道左側にある<御神水>。
階段を上がると<二の鳥居>と<狛犬>。
二の鳥居を越えるとすぐに古巨木。参道にはみ出している。
<拝殿>全景。現在の社殿は江戸時代中期の安永年間(1772年~1781年)の再建。拝殿、本殿ともに大正時代に茅葺から銅板葺に葺き替えられている。
<拝殿>正面に掛かる扁額は、拝殿のサイズに比してかなり小さめ。
二の鳥居をくぐってすぐ左側にある<授与所>。御朱印はこちら。
拝殿から左後ろに振り返る。<授与所>(左)と<社務所>(右)。
社務所の左隣にある<神楽殿>(左)と<祈祷申込者控所>(右)。
<社殿>全景。左側から。大きくて重厚感がある。
<社殿>全景。右側から。拝殿と本殿のバランスが良い。
拝殿後ろの<本殿>。拝殿と同様、サイズが大きく重厚感がある。
当社の特徴である、<窪地参道>をもう一度見に行く。
最後に、裏手の境内入口。看板が巨大。
すてき
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惣一郎1269投稿
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