真言宗智山派
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雨で紅葉した葉が落ちるのがすごいきれいでした。
(思わず動画撮ってしまった)
紅葉と五重塔も良き。
御朱印はいろいろありましたが、紅葉のものをいただきました。
天文元年(1532年)の堀越城下荻野への伽藍造立を開基とするが、中世において鼻輪郡西勝院がその源流と考えられている。津軽領内寺社諸宗筆頭の座位を与えられ、領内1313神社を統括する総別当をつとめ、歴代住職は京都勧修寺密乗院を兼帯し、津軽唯一の院家(いんげ)であった。津軽家の祈願所として帰依を受け、津軽藩の宗教政策の中核をになった。
最勝院五重塔は、青森県第1号国宝指定(後に重要文化財に改称)を明治41年に受けた。津軽統一の際に亡くなった人々を、敵味方の分け隔てなく供養するために大圓寺五重塔として建立された。特徴として相輪が長く、全体の均衡がとれており、国の文化財指定説明に『賽二東北地方第一ノ美塔ナリ』とあるように、姿の美しい五重塔として称賛される。
【陸奥國 古刹巡り】
最勝院(さいしょういん)は、青森県弘前市銅屋町にある真言宗智山派の寺院。山号は金剛山、寺号は光明寺。本尊は金剛界大日如来。五重塔は国指定の重要文化財。
寺伝によると、創建は室町時代の1532年、弘信僧都による開山と伝わる。大浦為信(津軽為信:弘前藩初代藩主)が日頃から帰依していた高野山の高僧・宥観を召還して祈願所として篤く庇護した。弘前藩2代藩主・津軽信牧が弘前城築城の際、城の北東の鬼門に当院を移し、以後歴代の弘前藩主津軽家の祈願所として庇護された。弘前八幡宮の別当職も務め、寺領300石が安堵されるとともに、領内の寺社総取締、真言宗五ヶ寺筆頭の格式を備え、塔頭寺院12ヶ寺を擁した。明治に入り、弘前八幡宮から分離し、現在地である旧大円寺境内に移された。
当院はJR奥羽本線・弘前駅の西方1.5kmの小高い場所にある。東側、南側、西側に小さな川が流れていて、西側には小川を隔てて県立弘前高校がある。また、境内の北部は八坂神社になっている。境内はすごく広いわけではないが、かつて弘前藩の寺社の総元締めであっただけあって、境内は整っており、主要伽藍の仁王門、本堂、五重塔には風格がある。
今回は、五重塔が国重文であることから参拝することに。参拝時は休日の午後で、自分以外にも家族連れなどの参拝者を何組か見掛けた。
境内東端入口の<寺号標>。
山門に向かって参道を進む。
先に参道右側に<弘前八坂神社>の鳥居が見えてくる。
さらに進むと、<山門>と<五重塔>が目に飛び込んでくる。
<山門>には「金剛山」の扁額が掛かる。狛犬の位置には<狛兎>が構えている。
山門をくぐったところからの眺め。本堂までまっすぐ太い参道が伸びている。
あらためて参道から<五重塔>。江戸時代前期の1667年に完成した、旧大円寺の塔で、弘前藩3代藩主・津軽信義、4代信政の寄進により完成した。方三間、銅板葺、相輪含む高さは31.2m。国指定の重要文化財。
参道を進んで、左側の<鐘楼>。
本堂近くまで行き、参道左側の<水屋>。
<本堂>全景。さすがかつて弘前藩の寺社を束ねたお寺だけあって風格がある。
<本堂>正面。扁額の「最勝院」の字体が面白い。
本堂から振り返って境内全景。
本堂の左隣に建つ<護摩堂>。
<護摩堂>正面。
護摩堂と本堂との間に立つ<弘法大師像>。やはり使いは<うさぎ>。
本堂に向かって左手、少し離れたところに建つ<聖徳太子堂>ほか祠群。
聖徳太子堂の近くに建つ、通称<六角堂>。正式名称は<如意輪観世音菩薩>。
江戸時代に弘前市内の豪商・一野屋が当時の大円寺に寄進したもの。
あらためて正しい位置、正面から<五重塔>。日本最北の歴史ある五重塔とのこと。
本堂に向かって右手にある<庫裏>。御朱印はこちら。
庫裏の前から<本堂>を望む。
最後に、最も印象深い<五重塔>。9月下旬ですでにもみじが赤く色づき始めていた。
北国の秋の訪れは、やはり早い。(^▽^)/
名称 | 最勝院 |
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御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | あり |
電話番号 | 0172-34-1123(代) お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | http://www15.plala.or.jp/SAISYOU/index.html |
絵馬 | あり |
巡礼の詳細情報
東北三十六不動尊霊場 第15番 | 御本尊:大日如来 御詠歌: ありがたや 辿りてここに 津軽寺 塔のもとにぞ 法の灯 |
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詳細情報
ご本尊 | 金剛界大日如来 |
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宗旨・宗派 | 真言宗智山派 |
Wikipediaからの引用
概要 | 最勝院(さいしょういん)は、青森県弘前市銅屋町にある真言宗智山派の寺院。山号は金剛山、寺号は光明寺。五重塔は重要文化財に指定されているものとしては日本最北に位置する。 |
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歴史 | 歴史[編集] 『津軽一統志』によると、天文元年(1532年)、常陸国出身の弘信が、堀越城下(現・弘前市堀越)に堂宇を建立したことに始まる。江戸時代初期に弘前藩2代藩主津軽信枚が弘前城を築城したことに伴い、慶長16年(1611年)、城の鬼門(東北)に当った現在地より北に3キロメートルほど離れた田町に寺院を移転し、弘前八幡宮の別当寺とされた。12か寺の塔頭寺院を従え藩の永世祈願所となった。近世には僧録所として、津軽藩領内の寺社を統轄する立場にあった。 明治時代の神仏分離令により最勝院以外の11か寺は廃寺となり、最勝院は廃寺となった寺院の檀家衆を引き受けて現在地(旧大圓寺跡)に寺籍を移転した。...Wikipediaで続きを読む |
引用元情報 | 「最勝院」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%9C%80%E5%8B%9D%E9%99%A2&oldid=92689512 |
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