たかてるじんじゃ
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楽しみ方高照神社のお参りの記録一覧
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青森県 弘前市 高岡字 神馬野 に鎮座する、高照神社、神社 巡りで参拝致しました、当方は 道の駅 全国制覇者で、全国の寺社、霊場を巡礼しております、対応は 慣れていて親切な神社様でした、どの様な神社か引用を用いて調べてみました、六祭神を祀ります、主祭神は 津軽信政命(弘前藩4代藩主)配神は 津軽為信命(同・初代藩主)、武甕槌神、天児屋根命、伊波比主神、比売神、社格等は 旧県社、創建年は 正徳2年(1712年)本殿の様式は 入母屋造杮葺、別名は 高照霊社、高岡霊社、高岡さま、例祭日は 旧暦7月21日、
宝永7年(1710年)に卒去した弘前藩4代藩主の津軽信政の廟所に起源を持つ。信政は生前、吉川神道の創始者・吉川惟足に師事していた経緯があり、信政の遺命により5代藩主・信寿が、幕府の神道方で吉川神道2代・吉川従長(よしかわ よりなが・1655 - 1730)を斎主とし神葬祭を行い、高岡の地に埋葬した、埋葬地には、本墓と拝墓の2つの墓碑が東西線軸上で前後に建てられ、後方(西側)にある本墓の八角柱の墓碑には「宝永七庚寅年」の銘が刻まれている、葬儀は津軽家の菩提寺の 天台宗 報恩寺で、吉川神道に基づいた祭儀により営まれ、その後、遺骸は高岡に葬送し、遺髪・爪は報恩寺境内に五輪塔を建て納められた、
享保13年(1728年)に吉川従長が、信政の生前の仁徳や高岡の地への埋葬の経緯などを記した『陸奥国 津軽高岡 高照霊社 御縁起』には、「信政は在世中から高岡を埋葬地に定めていた。」とあり、高岡の地には、津軽家の出自とされる藤原氏の氏神である春日4神を祀る小さな社があったことが、埋葬地と定めた理由の1つと考えられる。また他には「神葬祭は、従長の代理の北川武左衛門正種が執り行った」「御縁起執筆は、縁起を残すことにより神社の神徳が永遠に伝わることを目的とし、信政の嗣子の信寿が、従長に執筆を依頼した」などが記されている、
神葬祭が行われた翌年の正徳元年(1711年)に5代藩主・信寿が廟所を建立し、正德2年(1712年)に本殿や拝殿などの社殿が建立された、社殿などの境内への配置は、吉川神道の思想に基づいて構成し造営が行われているが、同じく吉川惟足に師事していた保科正之を祀る土津神社の社殿(慶応4年・1868年の戊辰戦争時に焼失)を模した準権現造の社殿となっている、社殿建立にあたり、由緒ある弘前の古名である「高岡」の地名を、この地に冠したとされる、江戸時代には信政が吉川神道から授かった「高照霊社」の霊社号(神号)にちなみ「高照霊社」と称され、また藩士たちからは、由緒ある弘前の古名から「高岡様」と崇敬され、藩政時代を通じ津軽氏歴代藩主により崇敬されていた、
宝暦5年(1755年)には、7代藩主・信寧が拝殿を造り替え、9代藩主・寧親が文化7年(1810年)に随神門を、文化12年(1815年)に廟所門を建立している、
文政13年(1830年)に10代藩主・信順により社殿の北側50 メートルほどの場所に、社殿の並びに平行の東西線に沿って馬場が整備され、馬場が完成後に「神馬牽入始之儀」が行われたが、歴代藩主や一族、重臣により奉納された大絵馬には、神馬奉納などの華やかな光景が描かれている、
明治初年に高照神社と改称し郷社となり[13]、明治4年(1871年)に春日4神を配祀、明治10年(1877年)に藩祖・為信を合祀、明治13年(1880年)に県社に列した。藩によって神社管理のために配置された高岡の住人は、現在も拝殿の開閉や、境内の草刈り、冬季の屋根の雪下ろしなどの維持管理を行っている

ここの神社は岩木山神社の近くなので寄ってみました。
先に話ますが、私は此処の神社には歓迎されてないですね。
拝堂の奥の津軽信政公廟所に行く時に、何回もハチが額に向かってきた為。
また今問題になっている神社ではないかなぁと思われる。
中規模の神社ですが、まず社務所が雪囲で固定されて、無人。廃墟みたいになっている。
進むにつれ灯篭が左右とも破損。ブルーシートで覆っている。
そのすぐ先の手水舎が破損。水も無いし、出てもいない。
ただ、数ヶ月に町内で清掃している案内だけ。宮司の継手が居ない為なのか、このままだと廃墟になり無くなってしまう。
ホトカミの信念が分かりました。
写真で判断してもらえれば。
御朱印は鳥居前の店屋でもらえます。
御朱印の感想は控えたいと思います。



【陸奥國 古社巡り】
高照神社(たかてる~)は、青森県弘前市高岡字神馬野にある神社。旧社格は県社。祭神は津軽信正命(津軽藩4代藩主)。別称は「高照霊社」、「高岡霊社」、「高岡さま」。本殿、中門、西軒廊、東軒廊、拝殿及び幣殿、廟所拝殿などが国指定の重要文化財。
『陸奥國津軽高岡高照霊社御縁起』によると、江戸時代中期の1711年、弘前藩5代藩主・信寿が、先代の津軽信正の廟所を建立したことに始まる。信正は生前、吉川神道の創始者・吉川惟足に師事していたことから、吉川神道の思想に基づき社殿が造営され、祭祀が行われた。以後、津軽氏歴代藩主に崇敬された。明治時代に入り、近代社格制度のもと郷社に列し、春日4神と藩祖・津軽為信を合祀、のち県社に昇格した。
当社は、JR奥羽本線・弘前駅の西北西12kmの緩やかな丘が続く山あいにある。境内は広く森に囲まれていて、境内東端入口は県道30号線に面している。南側の敷地には「高岡の森 弘前藩歴史館」がある。深い木々の神聖な空気の漂う参道を進むと、歴史の風格を感じさせてくれる、国重文の大きな社殿に辿り着く。なお、社殿の背後(西側)少し離れたところに津軽信政公廟所があり、こちらも国重文だが、自分の雑な下調べにより見逃してしまった。かなりショック…(^_^;)
今回は、拝殿、幣殿、本殿などが国重文の古社であることから参拝することに。参拝時は休日の午前中で、自分以外にも参拝者を数人見掛けた。
※社務所は無人だが、御朱印は一之鳥居の県道を挟んで向かい側にある商店で拝受できる。
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高照神社は青森県弘前市高岡神馬野に鎮座する神社です。高照神社の創建は不詳ですが古くから春日四神(武甕槌命・伊波比主神・天児屋根命・比売神)を祀る小祠があったと伝えられています。
津軽家は南部家の一族である久慈氏出身とされ、本来は源氏(南部家の祖)の氏神、八幡神を崇敬していましたが、南部家からの独立に際し、自らの祖を藤原氏とした為、藤原氏の氏神、春日神(春日大社の分霊)を祀る必要性があったと思われます。
特に弘前藩4代藩主津軽信政は吉川神道の創始者である吉川惟足に師事し、高岡の地に社殿を再建する計画を立てました(高岡の地は弘前城から西方にあたる為、東西軸に社殿を配置すれば弘前城を見下ろせる位置関係となっています)。
しかし、信政は宝永7年(1710)に計画半ばで弘前城で死去した為、5代藩主津軽信寿が引き継ぐ事になり、信政の遺言に従い神式の霊廟を小祠の背後と定め吉川惟足から授けられた神号「高照霊社」を社号としました(享保15年に高照神社と改称)。
藩主を祭る神社は明治時代以降、各地で盛んに創建されましたが、江戸時代中に創建される例は日光東照宮(栃木県日光市)は例外としても高照神社の他、会津藩初代藩主保科正之の土津神社(福島県猪苗代町)や長岡藩3代藩主牧野忠辰の蒼柴神社(新潟県長岡市)など例が少なく、同じ神道でも加賀藩主前田家や岡山藩主池田家、鳥取藩主池田家などは墓碑が神式の亀趺墓を採用し人里離れた霊地に墓域を構えていますが神社という形式は採用しなかったようです。
以来、高照神社は津軽家の崇敬社として庇護され5代藩主津軽信寿が正徳2年(1712)に本殿を造営したのを筆頭に7代津軽信寧は宝暦5年(1755)拝殿、9代津軽寧親は文化7年(1810)に随神門、文化12年(1815)に廟門を建立しています。
境内の伽藍配置は吉川神道の教えに基づき東西方向に建物が一直線に並ぶ独特な配置としています(会津藩初代藩主保科正之も神式の霊廟で土津神社の境内に葬られましたが、社殿は戊辰戦争の兵火で焼失した為、現存社殿としては全国唯一と言われています)。
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