ますみだじんじゃ
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真清田神社ではいただけません
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真清田神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年02月18日(木)
参拝:2020年2月吉日
真清田神社(ますみだ...)は、愛知県一宮市にある神社。式内社(名神大)、尾張国一之宮。旧社格は国幣中社、現在は神社本庁の別表神社。古代より尾張地方を治めた尾張氏の祖神・天火明命(あめのほあかりのみこと)を御祭神としている。当社周辺の地名「一宮市」は当社に由来する。
創建は不詳。国史での初見は平安初期の847年、「真清田天神」の昇格の記載がある。平安中期927年の延喜式神名帳では「真墨田神社 名神大」とある。その後の時代には社領を拡大するが、戦国時代の1584年に大地震で社殿が崩壊したり、豊臣秀吉に社殿を没収されたりで衰退、江戸時代に入って徳川将軍家、尾張徳川家の庇護を受けて復興。
社殿等の建造物は、第二次世界大戦中の米軍の一宮空襲で焼失したため、現存の建造物はすべて戦後の再建。それでも本殿、祭文殿は神社建築として評価され、国の登録有形文化財となっている。
当社は、JR尾張一宮駅から徒歩10分ほどの市街地に鎮座している。市街地の目抜きに位置しているが、街自体はシャッターの店も多くちょっと寂れている感じ。境内は広いが、市街地にあるため、古木大木草木は少なく境内は明るい。
参拝時は平日の午後で、参拝者はぱらぱら程度で多くはなかった。
創建は不詳。国史での初見は平安初期の847年、「真清田天神」の昇格の記載がある。平安中期927年の延喜式神名帳では「真墨田神社 名神大」とある。その後の時代には社領を拡大するが、戦国時代の1584年に大地震で社殿が崩壊したり、豊臣秀吉に社殿を没収されたりで衰退、江戸時代に入って徳川将軍家、尾張徳川家の庇護を受けて復興。
社殿等の建造物は、第二次世界大戦中の米軍の一宮空襲で焼失したため、現存の建造物はすべて戦後の再建。それでも本殿、祭文殿は神社建築として評価され、国の登録有形文化財となっている。
当社は、JR尾張一宮駅から徒歩10分ほどの市街地に鎮座している。市街地の目抜きに位置しているが、街自体はシャッターの店も多くちょっと寂れている感じ。境内は広いが、市街地にあるため、古木大木草木は少なく境内は明るい。
参拝時は平日の午後で、参拝者はぱらぱら程度で多くはなかった。
鳥居と社号標。
楼門全景。楼門は1945年の米軍の一宮空襲での焼失を逃れたが1961年に再建。
楼門。扁額は、聖武天皇ご宸筆と伝わる旧額を模して人間国宝・平櫛田中氏が彫刻とのこと。
楼門をくぐって左手にある<手水舎>。
楼門くぐって真っ直ぐ正面にある<拝殿>。
社殿は拝殿の後ろに、祭文殿(さいもんでん)、渡殿(わたどの)、本殿という特殊な造り。いずれも1950年代に名古屋営林局払下げの木曾檜を使い再建。
本殿は、銅板葺三間社流造。内部は外陣・中陣・内陣に分かれ、四周には縁がめぐらされている。本殿内陣中陣の御扉や柱桁は伊勢神宮から下賜された古材を使用。
本殿は、銅板葺三間社流造。内部は外陣・中陣・内陣に分かれ、四周には縁がめぐらされている。本殿内陣中陣の御扉や柱桁は伊勢神宮から下賜された古材を使用。
本殿の左手に手水舎のような建物が。<神水舎>とある。
神水舎のそばに授与所があり、御朱印はこちら。写真は授与所から広角で撮った境内全景。
本殿の右手にある北白川房子様歌碑。1972年に鎮座2600年記念大祭を斎行、その際に賜った御歌を歌碑としたもの。
本殿の右手前にある<神馬>。
本殿の右手にある大きな摂社<服織(はとり)神社>。立派な社号標と参道がある。
服織神社拝殿。一宮市が織物産業で栄えたことから、1965年に織物の神社として創建。
服織神社のさらに右手にある<三末社>。愛鷹社、天神社、犬飼社を奉祀。
服織神社の社号標の近くにある<神池>
神池の脇に、両側に社標のある面白い鳥居。左の社標には<八龍神社>、右の社標には<厳島社>とある。どちらも神池の浮島に社殿がある。
楼門の近くに戻って、桃丘亭という茶室の横にある<富島稲荷神社>。
富島稲荷神社の社殿。
最後に、社殿全景。ダイナミックで複雑で美しい。
すてき
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惣一郎1269投稿
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