熊野速玉大社から阿須賀神社を経て東南行し、海岸沿いに那智へ向かう古熊野街道脇に鎮座する。
紀伊続風土記に「浜王子社 方三尺六寸余、配神 稲飯命、三毛入野命、鳥居五尺」と記してあり、以前は、熊野九十九王子の一で「浜王子」と称していた。
(県指定史跡)
当王子神社の名は、中右記などには見えないが、建仁元(1201)年の後鳥羽院熊野御幸記十月十九日の条に、新宮より那智を参ることを記したなかに、「山海眺望非レ無レ興、此道又王子数多御座」とある所を見れば、この王子も「王子数多御座」の内に入っていることであろうと推測される。
文明5(1473)年の九十九王子記には、那智から新宮の間にある五王子の一に「浜王子」を記している。
当社の祭神は、神武天皇の兄とされ、日本書記神武天皇即位前記戊午年六月二十三日の条によれば、熊野で天皇軍が暴風にあった時、両神とも海に身を投じて海神の怒りを鎮めたという。
この二皇兄を合わせ祀っており、王子社とされる以前、海神を祀った神社であったとも推測されている。
寛文書上には「配神 若女一王子」とあり、古くより王子権現としても鎮座していた。
当社は、明治40年7月30日、縣下神社合祀励行の際、熊野地なる阿須賀神社に合祀され廃社となっていたが、区民崇敬の念深く旧社殿を保存し、歳時祭祀敬虔の誠を捧げること怠らず、熱心に復興を請願した結果、縣当局も顕然たる古き由緒をおし量られ、詮議の末、区民の願意が受け入れられ、大正15年8月復興の許可を得、遷座祭を執行復興した。
東京都北区王子本町に鎮座する王子神社は、元享2(1322)年の秋、武蔵国豊島郡の領主、豊島左近太夫景村が、当社の御分霊をその領地、芝生の岡に勧請(同時に阿須賀神社の御分霊も勧請)豊島・足立・多摩・兒玉・新倉五郡の産土神として社殿を建て、この地を王子村と称した。
その後寛永年中に、飛鳥社を王子社と合祀し、元文の頃将軍家の命により、その跡に桜樹を栽植して遊覧の地とした。
(飛鳥山碑)
この王子神社の例祭は8月13日に行われるが、この折古雅なる田楽(花踊または槍祭と称す)が奉納されるが、この田楽は当方より移し伝えられたもので、東京都下で有名な神事となっており、今は大元なる当社では神事絶えて、その姿だに存しないのはまことに惜むべきことである。