りんこうじあと|曹洞宗|月照山
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臨江寺は存在しません。廃寺になっています。今は、子供達が遊べる広場です。しかし、その昔は村人達が怒りをぶつけた寺でもあったのです。それを思い、今こうしてこの広場に立ってみると何故か涙腺がゆるんでしまう、そんな気持になってしまいました。
村木砦の戦いで、今川軍に加担した村人達は処刑せよと、信長の命が下ります。村人達は「好きで協力したんじゃない」と代官に訴えたのですが、それもままならず処刑されてしまいます。役立たずの役人どもめ!と村人達は臨江寺に火を放ったのです。
その後、庵として復元され皇風学校として開校しました。
明治5年から明治15年まで学校がおかれました。(明治9年まで皇風学校)学校の門柱が残されています。
昭和57年には完全に廃寺となり臨江寺の跡地はちびっ子広場になっています。(現在、建っているお堂は臨江寺とは関係ありません。このお堂ついては、またの機会に。)
(参考写真)ここで織田・水野軍は戦勝酒宴を開いたそうです、といいますか生き残った兵士達はむさぼるように飯を喰らったそうです。その様子から「飯喰場」と名付けられ、今でもこの辺の地名になっています。
(参考写真)飯喰場は、ちびっ子広場になっています。
歴史
この寺ら15、6世紀当時、村木村と対岸の熊村(現、刈谷市熊野町)間の渡し舟を管理していた。ちなみに、村木村と熊村間は11町30間(約1,250m)である。
この寺を村木砦の戦いに先立ち、今川方がいち早く奪い、制海権を得た。
この寺は、永禄6年(1563)創建の曹洞宗の寺である。戦い当時は、庵と呼ばれた小さな寺であった。
明治5年(1872)から明治15年(1882)まで学校がおかれた。(明治9年まで皇風学校)
昭和57年(1982)には廃寺となり、遊園地となった。
昭和58年(1983)には村木地蔵堂(村木大地蔵)が移転再建された。もとは近くの現「老人憩の家」のあたりにあった。
現在は、地蔵堂、臨江寺跡、学校跡を示す碑、学校の石柱門が残されている。
(『東浦の歴史と文化』より)
しょう
写真
| 名称 | 臨江寺跡 |
|---|---|
| 読み方 | りんこうじあと |
| 電話番号 | 0562-83-4434 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
詳細情報
| 山号 | 月照山 |
|---|---|
| 宗旨・宗派 | 曹洞宗 |
| 創建時代 | 永禄6年(1563) |
| ご由緒 | この寺ら15、6世紀当時、村木村と対岸の熊村(現、刈谷市熊野町)間の渡し舟を管理していた。ちなみに、村木村と熊村間は11町30間(約1,250m)である。
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