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りゅうげじ|日蓮宗観富山

龍華寺
公式静岡県 桜橋駅

8時30分〜16時30分 年中無休

御朱印について
御朱印
あり
限定
あり
御朱印帳
あり
パーキング
駐車場
あり

50台 山門前無料
大型バスも10台以上停めれます。

その他の巡礼の情報

東海の名刹

龍華寺について

当山は寛文十年(江戸時代初期)日近大僧都の開いた寺で宗派は日蓮宗であります。
東海の名刹と謳われる観富の眺望の素晴らしさから多くの人に親しまれ「滝口入道」の文豪高山樗牛もこの地に眠って居ります。
また、庭園の大蘇鉄は国の天然記念物に認定されて居ります。

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歴史

当山は寛文十年(江戸時代初期)日近大僧都の開いた寺で宗派は日蓮宗であります。
東海の名刹と謳われる観富の眺望の素晴らしさから多くの人に親しまれ「滝口入道」の文豪高山樗牛もこの地に眠って居ります。
また、庭園の大蘇鉄は国の天然記念物に認定されて居ります。

お万の方(1580〜1653年)は、徳川家康公の側室であり、紀州徳川家の頼宣公(卿)、水戸徳川家の頼房公の生母でありました。お万の方は法華の信仰きわめて篤い方で、「法華宗中興の三祖」と呼ばれる一如院日重上人(身延山第二十世)、常照院日乾上人(同第二十一世)、心性院日遠上人(同第二十二世)に深く帰依し、信仰の師と仰いでおられました。その縁により日乾上人の甥で日遠上人の弟子であった日近上人を猶子とされ援助を惜しみませんでした。
 承応二年(1653年)、お万の方が亡くなられると、生前に寄進建立された身延の大野山本遠寺へ葬られました。日近上人はこの大野山において日々お万の方の菩提を弔うことになりました。
 寛文六年(1664年)、紀伊大納言頼宣公の正室、瑤林院浄秀日芳大姉(加藤清正公の五女、八十姫)の葬儀の大導師を務め、その際に頼宣公より二百五十石の当地の寄進を受け、ここに隠居所を建てるべく庵をむすびました。
 寛文十年、寺観も整い、大野別院と称して落成法要を営み、ここに当山がの礎が草創されました。寺紋はお万の方の生家水野家の「丸に沢瀉(おもだか)」を掲げることも許されました。
 紀州徳川家二代目光貞公の正室、安之宮照子女王(伏見宮貞清親王の息女)は日近上人を敬うこと深く、この大野別院の開創にあたり、光貞公とともに時の東山天皇に奉上、勅許もあり「観富山」の勅額を賜り山号も定まりました。以来当山は皇室との御縁も浅からず、下賜の品々も伝わっております。この伝統もあって、近年も昭和天皇、高円宮殿下、浩宮徳仁殿下(現皇太子殿下)の行啓を賜っております。

「龍華寺と富士山」
 有度山東麓から見た富士山の風景は、三保松原から見た富士山の風景とともに、構図としては日本を代表する風景の一つであり、三保松原が自然的資源ではなく文化的資源に与えられる世界文化遺産の構成資産になった理由もうなずけます。
 江戸時代後期を代表する戯作者の滝沢馬琴(1767~1848年)は、『南総里見八犬伝』で有名ですが五十一歳のときの考証随筆『玄同放言』で、「第九地理」に龍華寺前庭からの望嶽図を載せています。馬琴は、「眺望は駿河国有度郡龍華寺の庭より観るを最一とすべし」とも記しています。
 最近、東欧のグルジアの国立博物館で発見された高島北海(1850~1931年)が描いた富嶽図は、龍華寺から見て描いた富士山図であることが、日本の研究機関(国立文化財機構東京文化財研究所)の調査で分かってきました。
 この「富嶽図」は、明治時代末の作品で、龍華寺と富士山の関係が当時からヨーロッパにも知られていたことが推測されます。
 明治時代を代表する思想家であり文芸評論家でもあった高山樗牛(1871~1902年)は、二十九歳のころに病気の転地療養のために興津に滞在したことから清見寺や龍華寺なども訪れています。

「文豪 高山樗牛(たかやまちょぎゅう)」
高山樗牛は明治四年一月十日に現在の山形県鶴岡市高畑町に於いて荘内藩士斎藤親信の次男として生まれました。翌年同藩士高山久平(斎藤親信の兄)の養子となり、幼名を高山林次郎といい、早くから天才的な文才を示し、仙台二高(現東北大学)在学中には評論を書きはじめ山形日報にゲーテの「若きウェルテルの悩み」の訳稿を掲載したりしました。ゲーテ作『淮亭郎の悲哀』を訳した頃からペンネームを「樗牛」とし名は古代中国の荘子の書からとったものであります。明治二十六年、現在の東京大学哲学科に入学し、同級の友人には、瀧廉太郎の作曲で知られる『荒城の月』の作詞者である土井晩翠(どいばんすい)や日本の歴史評論家の笹川臨風(ささがわしょうふう)、または東京帝国大学教授で東大に初めて宗教学講座を開設した姉崎正治(嘲風)等がいます。翌二十七年、東大在学中に読売新聞の懸賞小説に応募した「滝口入道」が首位入選、翌年新聞紙上に掲載されて若い読者から熱狂的な支持を受けました。また在学中には姉崎正治等と「帝国文学」の創刊に参画し創刊に貢献しました。
 東大を卒業した明治三十年、仙台二高の教授となりますが、八ヶ月で校長排斥運動をきっかけに辞任。出版社博文館に入社し雑誌『太陽』の編集主幹となり、評論や時評を行います。当時の時勢は日清戦争後の三国干渉後で国粋主義的な気運が盛り上がっいる時期で樗牛の「日本主義」を鼓吹する評論、一方で『わがそでの記』のようなロマン主義的な美文は多くの若者達の愛読書となり、絶大な支持を受けました。
 美学をめぐっては森鴎外と論争を行って鴎外の学者としての能力に疑問符をつけ尾崎紅葉、幸田露伴が見出した井原西鶴を否定することで、文学におけるリアリズムと対決をし、生涯の論敵となった坪内逍遥が編纂する『小説神髄』にも鋭鋒を向け、美と歴史、主我主義をめぐって折り合うことはありませんでした。明治三十三年、文部省より美学研究のため夏目漱石・芳賀矢一等と共に海外留学を命ぜられましたが洋行の送別会後に二十四際より発病する肺結核により喀血し入院、療養生活に入ります。留学辞退後は病中に書いた『文明批評家としての文学者』ではニーチェの思想を個人主義の立場から紹介し病の中、東大の講師となり、週一回、日本美術を講じました。また国柱会を創設した田中智学の著作『宗門之維新』を拝読後、日蓮聖人に惹かれ日蓮聖人の研究に没頭します。
 明治三十五年、論文『奈良朝の美術』により文学博士号を授与されますが病状が悪化し、東大講師を辞任。十二月二十四日に神奈川県平塚市の海岸に在った杏雲堂平塚病院にて三十一歳の若さで逝去され、自身も住んだ事がある鎌倉の長谷寺で葬儀が行われ、戒名{法号}の「文亮院霊岱謙光日瞻居士」は田中智学がつけた法号であり、翌三十六年一月十九日、遺言により当山に葬らました。
 三十一歳の若さで夭折した樗牛は、霊峰富士を望む観富山龍華寺に葬ってほしいという本人の遺言により龍華寺に遺骨が眠っています。後に高山樗牛碑も建立されました。胸像の作者は、大正から昭和にかけて活躍した彫刻家の朝倉文夫(1883~1964年)です。

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龍華寺の基本情報

住所静岡県静岡市清水区村松2085
行き方

お車でお越しの場合
東名高速道路 清水インターより 20分
三保の松原より 20分
久能山いちご海岸通りより 10分
公共交通機関でお越しの場合
JR東海道線「清水」駅より
静鉄バス「市立清水病院」「忠霊塔方面行き」にて 20分

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名称龍華寺
読み方りゅうげじ
通称富士山の眺めのよいおてら
参拝時間

8時30分〜16時30分 年中無休

参拝にかかる時間

15分~30分 

参拝料

大人300円 子供150円

トイレ拝観受付横、本堂、客殿にあり
御朱印あり

限定御朱印なし
御朱印帳あり
電話番号054-334-2858
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
メールアドレスinfo@ryugeji.jp
ホームページhttps://www.ryugeji.jp
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詳細情報

ご本尊久遠実成本師釈迦牟尼仏(江戸初期)
上行菩薩(江戸初期)
日蓮聖人像(鎌倉期)
鬼子母神像
七面大明神
不動明王
三十番神像
山号観富山
院号龍華寺
宗旨・宗派日蓮宗
創建時代寛文10年(1670年)
開山・開基常寂院日近大僧都
本堂本堂(茅葺き屋根書院造り)
文化財

大蘇鉄(国の天然記念物、日本最古最大)
サボテン(静岡市天然記念物、江戸初期)
観富園(静岡市名勝 須弥山式庭園)
本堂(静岡市名勝)

ご由緒

当山は寛文十年(江戸時代初期)日近大僧都の開いた寺で宗派は日蓮宗であります。
東海の名刹と謳われる観富の眺望の素晴らしさから多くの人に親しまれ「滝口入道」の文豪高山樗牛もこの地に眠って居ります。
また、庭園の大蘇鉄は国の天然記念物に認定されて居ります。

お万の方(1580〜1653年)は、徳川家康公の側室であり、紀州徳川家の頼宣公(卿)、水戸徳川家の頼房公の生母でありました。お万の方は法華の信仰きわめて篤い方で、「法華宗中興の三祖」と呼ばれる一如院日重上人(身延山第二十世)、常照院日乾上人(同第二十一世)、心性院日遠上人(同第二十二世)に深く帰依し、信仰の師と仰いでおられました。その縁により日乾上人の甥で日遠上人の弟子であった日近上人を猶子とされ援助を惜しみませんでした。
 承応二年(1653年)、お万の方が亡くなられると、生前に寄進建立された身延の大野山本遠寺へ葬られました。日近上人はこの大野山において日々お万の方の菩提を弔うことになりました。
 寛文六年(1664年)、紀伊大納言頼宣公の正室、瑤林院浄秀日芳大姉(加藤清正公の五女、八十姫)の葬儀の大導師を務め、その際に頼宣公より二百五十石の当地の寄進を受け、ここに隠居所を建てるべく庵をむすびました。
 寛文十年、寺観も整い、大野別院と称して落成法要を営み、ここに当山がの礎が草創されました。寺紋はお万の方の生家水野家の「丸に沢瀉(おもだか)」を掲げることも許されました。
 紀州徳川家二代目光貞公の正室、安之宮照子女王(伏見宮貞清親王の息女)は日近上人を敬うこと深く、この大野別院の開創にあたり、光貞公とともに時の東山天皇に奉上、勅許もあり「観富山」の勅額を賜り山号も定まりました。以来当山は皇室との御縁も浅からず、下賜の品々も伝わっております。この伝統もあって、近年も昭和天皇、高円宮殿下、浩宮徳仁殿下(現皇太子殿下)の行啓を賜っております。

「龍華寺と富士山」
 有度山東麓から見た富士山の風景は、三保松原から見た富士山の風景とともに、構図としては日本を代表する風景の一つであり、三保松原が自然的資源ではなく文化的資源に与えられる世界文化遺産の構成資産になった理由もうなずけます。
 江戸時代後期を代表する戯作者の滝沢馬琴(1767~1848年)は、『南総里見八犬伝』で有名ですが五十一歳のときの考証随筆『玄同放言』で、「第九地理」に龍華寺前庭からの望嶽図を載せています。馬琴は、「眺望は駿河国有度郡龍華寺の庭より観るを最一とすべし」とも記しています。
 最近、東欧のグルジアの国立博物館で発見された高島北海(1850~1931年)が描いた富嶽図は、龍華寺から見て描いた富士山図であることが、日本の研究機関(国立文化財機構東京文化財研究所)の調査で分かってきました。
 この「富嶽図」は、明治時代末の作品で、龍華寺と富士山の関係が当時からヨーロッパにも知られていたことが推測されます。
 明治時代を代表する思想家であり文芸評論家でもあった高山樗牛(1871~1902年)は、二十九歳のころに病気の転地療養のために興津に滞在したことから清見寺や龍華寺なども訪れています。

「文豪 高山樗牛(たかやまちょぎゅう)」
高山樗牛は明治四年一月十日に現在の山形県鶴岡市高畑町に於いて荘内藩士斎藤親信の次男として生まれました。翌年同藩士高山久平(斎藤親信の兄)の養子となり、幼名を高山林次郎といい、早くから天才的な文才を示し、仙台二高(現東北大学)在学中には評論を書きはじめ山形日報にゲーテの「若きウェルテルの悩み」の訳稿を掲載したりしました。ゲーテ作『淮亭郎の悲哀』を訳した頃からペンネームを「樗牛」とし名は古代中国の荘子の書からとったものであります。明治二十六年、現在の東京大学哲学科に入学し、同級の友人には、瀧廉太郎の作曲で知られる『荒城の月』の作詞者である土井晩翠(どいばんすい)や日本の歴史評論家の笹川臨風(ささがわしょうふう)、または東京帝国大学教授で東大に初めて宗教学講座を開設した姉崎正治(嘲風)等がいます。翌二十七年、東大在学中に読売新聞の懸賞小説に応募した「滝口入道」が首位入選、翌年新聞紙上に掲載されて若い読者から熱狂的な支持を受けました。また在学中には姉崎正治等と「帝国文学」の創刊に参画し創刊に貢献しました。
 東大を卒業した明治三十年、仙台二高の教授となりますが、八ヶ月で校長排斥運動をきっかけに辞任。出版社博文館に入社し雑誌『太陽』の編集主幹となり、評論や時評を行います。当時の時勢は日清戦争後の三国干渉後で国粋主義的な気運が盛り上がっいる時期で樗牛の「日本主義」を鼓吹する評論、一方で『わがそでの記』のようなロマン主義的な美文は多くの若者達の愛読書となり、絶大な支持を受けました。
 美学をめぐっては森鴎外と論争を行って鴎外の学者としての能力に疑問符をつけ尾崎紅葉、幸田露伴が見出した井原西鶴を否定することで、文学におけるリアリズムと対決をし、生涯の論敵となった坪内逍遥が編纂する『小説神髄』にも鋭鋒を向け、美と歴史、主我主義をめぐって折り合うことはありませんでした。明治三十三年、文部省より美学研究のため夏目漱石・芳賀矢一等と共に海外留学を命ぜられましたが洋行の送別会後に二十四際より発病する肺結核により喀血し入院、療養生活に入ります。留学辞退後は病中に書いた『文明批評家としての文学者』ではニーチェの思想を個人主義の立場から紹介し病の中、東大の講師となり、週一回、日本美術を講じました。また国柱会を創設した田中智学の著作『宗門之維新』を拝読後、日蓮聖人に惹かれ日蓮聖人の研究に没頭します。
 明治三十五年、論文『奈良朝の美術』により文学博士号を授与されますが病状が悪化し、東大講師を辞任。十二月二十四日に神奈川県平塚市の海岸に在った杏雲堂平塚病院にて三十一歳の若さで逝去され、自身も住んだ事がある鎌倉の長谷寺で葬儀が行われ、戒名{法号}の「文亮院霊岱謙光日瞻居士」は田中智学がつけた法号であり、翌三十六年一月十九日、遺言により当山に葬らました。
 三十一歳の若さで夭折した樗牛は、霊峰富士を望む観富山龍華寺に葬ってほしいという本人の遺言により龍華寺に遺骨が眠っています。後に高山樗牛碑も建立されました。胸像の作者は、大正から昭和にかけて活躍した彫刻家の朝倉文夫(1883~1964年)です。

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