御朱印・神社お寺の検索サイト

楽しみ方
月500円で広告非表示・毎月幸せと健康をご祈願の特典あり
あなたの応援で100年後にも神社お寺がありますように。

だいしんじ|浄土宗霊松山

大信寺
群馬県 篠塚駅

御朱印について御朱印
あり
限定
-
御朱印帳
-
ありません
パーキング
駐車場
あり

あり

その他の巡礼の情報

上州邑楽七福神
布袋尊

おすすめの投稿

くし
くし
2026年05月24日(日)1856投稿

鳥居に頭をぶつけて帰ってきてから数日後⛩️💥😵
次は千代田町より少し手前の邑楽町の既知の寺社全拝を目指して再び南方向へお出かけ🚙

今回のメインターゲットの邑楽町篠塚地区は、新田義貞家臣の篠塚伊賀守重広の領地で彼に纏わる寺社が多いので、まずは篠塚伊賀守の墓所のある大信寺へ。
ここは過去2度受印に失敗してるので運試しの意味もありました🎯
「三度目の正直」で受印できたらこのまま邑楽町を巡拝🙏✨
「仏の顔も三度まで」で受印できなかったら、初っぱなから縁起悪いので邑楽町以外に予定変更するつもりでした😒💨

結果は・・・晴れて受印できたので、この日は邑楽町巡拝をこのまま続行することに決定👍w

今まで大信寺は境内部分しか拝んだことがなく、今回は裏手にある篠塚伊賀守の御廟の方まで回ったのでちょっと写真が多め📷️💦
御廟にて「今日はあなたの足跡を辿らせていただきますのでどうかお守りください🙏 ちなみに宿敵の足利の領民ですが事故とか起こさないでくださいませ💧」と、道中安全を祈願してこの日の巡拝を開始しました🚙w

大信寺の御朱印

三度目の正直でやっと受印できた💨
これでダメだったらホント「仏の顔も三度まで」で、この寺とはよほど相性悪いんだな😒と考え、もう二度と来ないつもりでした💔w

大信寺(群馬県)

本堂は何度か拝んでるし、今回のテーマに沿って、まずは寺の裏手にある篠塚伊賀守関係の霊跡から拝みました

他38枚の写真を見る
もっと読む
投稿をもっと見る|
7

歴史

大信寺の創建は元亀元年(1570)、内藤大和守(北条氏房の叔父) が開基となり総誉清巌上人を招いて開山したのが始まりとされます。
徳川家に縁のある寺院で、三代将軍徳川家光の実弟徳川忠長の墓がある事でも知られています。忠長は容姿端麗で文武に優れていた為、父 徳川秀忠、母 江(浅井長政の三女)から寵愛され次期将軍と期待されていましたが、家光の乳母春日局の画策により家康から家光のお墨付きを戴くと立場を追われ寛永元年(1624)に将軍候補から駿河藩55万石(駿河・遠江・甲府)の大名となりました。
その後、忠長は乱行があったされ寛永8年(1631)に甲府に蟄居を言い渡され、さらに、幕府に許可無く秀忠の菩提を弔う為寺院を建立した事などから高崎城に幽閉、当時の高崎藩主安藤重長は何度も赦免のお伺いを立てましたが認められず寛永10年(1633)に自刃させられました。享年28歳。
忠長は死んでも罪が許されず延宝3年(1675)、四代将軍家綱のとき、死去から43回忌にようやく免罪され霊廟が建立されました。しかし、墓の廻りには鎖が巻かれたままだったそうで「鎖のお霊屋」と呼ばれていました。
当初の霊廟は昭和20年(1945)、戦災により焼失しましたが、戦災から免れた忠長の姉である千姫が供養の為奉納した品々(葵紋付きの硯箱、水晶のつぼ、豊臣秀頼縁の袈裟、婚礼時に使用した金色の銚子)や忠長自筆の手紙、短刀(自刃の際用いたとも)、位牌、墓碑などが残っています。
忠長の墓は高さ2.3mの五輪塔で正面には「峯厳院殿御宝塔」が刻まれ、周囲は石造の玉垣が廻り、門扉には徳川家の家紋である三つ葉葵が掲げられている格式が高いもので、忠長の霊牌や縁の品々と共に昭和41年(1966)に高碕市指定史跡に指定されています。

歴史をもっと見る|
2

大信寺の基本情報

名称大信寺
読み方だいしんじ
トイレあり
御朱印あり
限定御朱印なし
電話番号0276-88-2062

お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。

詳細情報

ご本尊阿弥陀如来坐像
山号霊松山
院号正定院
宗旨・宗派浄土宗
創建時代元亀元年(1570)
開山・開基開山 総誉清巌上人、開基 内藤大和守(北条氏房の叔父)
ご由緒

大信寺の創建は元亀元年(1570)、内藤大和守(北条氏房の叔父) が開基となり総誉清巌上人を招いて開山したのが始まりとされます。
徳川家に縁のある寺院で、三代将軍徳川家光の実弟徳川忠長の墓がある事でも知られています。忠長は容姿端麗で文武に優れていた為、父 徳川秀忠、母 江(浅井長政の三女)から寵愛され次期将軍と期待されていましたが、家光の乳母春日局の画策により家康から家光のお墨付きを戴くと立場を追われ寛永元年(1624)に将軍候補から駿河藩55万石(駿河・遠江・甲府)の大名となりました。
その後、忠長は乱行があったされ寛永8年(1631)に甲府に蟄居を言い渡され、さらに、幕府に許可無く秀忠の菩提を弔う為寺院を建立した事などから高崎城に幽閉、当時の高崎藩主安藤重長は何度も赦免のお伺いを立てましたが認められず寛永10年(1633)に自刃させられました。享年28歳。
忠長は死んでも罪が許されず延宝3年(1675)、四代将軍家綱のとき、死去から43回忌にようやく免罪され霊廟が建立されました。しかし、墓の廻りには鎖が巻かれたままだったそうで「鎖のお霊屋」と呼ばれていました。
当初の霊廟は昭和20年(1945)、戦災により焼失しましたが、戦災から免れた忠長の姉である千姫が供養の為奉納した品々(葵紋付きの硯箱、水晶のつぼ、豊臣秀頼縁の袈裟、婚礼時に使用した金色の銚子)や忠長自筆の手紙、短刀(自刃の際用いたとも)、位牌、墓碑などが残っています。
忠長の墓は高さ2.3mの五輪塔で正面には「峯厳院殿御宝塔」が刻まれ、周囲は石造の玉垣が廻り、門扉には徳川家の家紋である三つ葉葵が掲げられている格式が高いもので、忠長の霊牌や縁の品々と共に昭和41年(1966)に高碕市指定史跡に指定されています。

体験
「みんなでつくる御朱印・神社お寺の検索サイト」という性質上、掲載されている情報の正確性は保証されませんので、必ず事前にご確認の上ご利用ください。
神社寺院のホームページが無料でかんたんに作れる!

この寺院の僧侶様へ

公式アカウント(無料)にご登録いただくと、

ご自身の寺院の情報を編集することができます。

無料登録して、参拝者が必要な情報を直接伝えてみませんか?

詳しくはこちら

ホトカミのデータについて

ホトカミには、日本最大となる全国15万8千件の神社お寺の情報や、2万件以上の御朱印のオリジナルデータがあります。

ご利用になりたい法人様やメディア関係の方々は、こちらよりお気軽にご相談ください。

御朱印背景
NEWSLETTER

最新の限定御朱印情報が届く!

御朱印メルマガを受け取ろう

※購読はいつでも解除できます。利用開始をもって利用規約プライバシーポリシーに同意したものとみなします。
This site is protected by reCAPTCHA and the GooglePrivacy Policy andTerms of Service apply.
神社寺院のホームページが無料でかんたんに作れる!
行きたい
行った
お問い合わせ

ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから

お問い合わせ